明日花咲くカタリーネ
9、母というもの
朝早くに目が覚めてしまった。
昨日の戦闘訓練で疲れたからと、いつもより早い時間にベッドに入ったのが原因らしい。
寮にいた頃はどんなに疲れていても本を読んで夜更かししてしまっていて、どうしても早くには起きられなかったから、こんなふうに朝の淡い陽射しを目にすることなんて滅多にない。
窓際に立って大きく伸びをすると、何だか随分と遠くへ来たような気がした。
「おや、カティさま。おはようございます」
「おはようございます」
喉が渇いていたから何かもらおうと厨房へ行くと、そこには紅茶を淹れているセバスティアンがいた。
「それは……?」
「マティウスさまは朝が弱いので、眠気覚ましのストロングティーをお淹れしているんです。カティさまもご一緒されますか?」
「ううん。お水をもらいにきただけだから。……って、わたしはいつからカティさまになったの?」
「マティウスさまの大切なご友人ですから」
好々爺は、涼しい顔で茶器のしたくを整えながらそんなことを言う。……本当、このジジイは何考えているのだろう。
「マティウスさま、良い子ですね」
「ええ。坊っちゃまは良い子ですよ」
「何の問題もないじゃない」
「……ずっと、そう言っていただけると良いのですが」
「何を隠してるの? この仕事、おかしくない?」
「隠し事など、何もございません。坊っちゃまが抱えている問題は、最初にお伝えした通りです」
厨房からマティウスの部屋へ向かう道中、何か聞き出せるかと思ったけれど、ジジイは柔和な笑みを浮かべたままだった。
別に何もないならないで、わたしは楽々仕事を終えてがっぽりお金をいただくだけだから良いのだけれど。
……ただ、この二日でちょっぴりマティウスに対して情が生まれてしまったから、知るべきことがあるなら知っておきたいのだ。
「奥様でも旦那様でも、ましてや子供のときからおそばにいるわたくしでは、気づいて差し上げられないことがあるのです。踏み込めないことも、たくさんございます。ですから、カティさまを頼ったのですよ。……何卒、よろしくお願いいたします」
好々爺はそう言って深々と頭を下げると、マティウスの部屋へ入っていった。
食えないジジイだと思うけれど、坊っちゃまへの愛は本物らしい。
「踏み込めないこと、ねぇ……」
マティウスに対して問題を感じていないわたしとしては、その言葉に違和感しか残らない。でも、気を引き締めて臨まねばならないのだなという意識にはなった。
「マティウス、今日はカティを借りてもいいかしら?」
朝食の席にやってきた夫人は、開口一番そう言った。マティウスは一瞬キョトンとした顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。
「よかった! この前注文したお洋服の仮縫いが済んだってことだから、せっかくなら屋敷に仕立て屋を呼んで調整したり他のものを見立てたりしましょうって思ったのよ」
「そういうことなら、私は構いません」
「そうよね! マティウスもカティが可愛いお洋服を着ると嬉しいものね!」
「そうですね」
ちょ、ちょっと待って! ーーわたしはそう口を挟みたかったけれど、パンが、ハムが、思いのほかかさばってなかなか飲み下せなくて、もぐもぐやっているうちに二人の間で話が終わってしまった。
それにしても、何て適当な返事をするんだマティウス!
マティウスは興味がないのか黙々と食事に戻っているし、夫人はニコニコとこちらを見ているし。
そんなわけで、わたしは夫人の着せ替え人形になることが決まってしまった。こんな骨ばった体に何を着せてもどうしようもないのに。
何の足しにもならないかもしれないけれど、とりあえずわたしは残りの食事を胃に収めることに集中した。
「まぁ、カティはこの色も似合うわねぇ」
夫人は何回目かの同じ台詞を言って、わたしに高そうな布を押し当てた。
一体わたしに何着服を仕立てるつもりなのやら。しかも、フリフリふわふわとした実用性に乏しいものばかり。貴族の令嬢ならいざ知らず、わたしはそれをどこへ着ていけばいいのだろう。
「髪も目も綺麗な色をしているものね。本当に、着映えがするわぁ」
「そんな……髪も目もただの茶色ですよ」
「ただの茶色! そんなふうに言うものじゃないわ。髪は鳶色だし、目は琥珀色。自分の魅力はきちんと表現できなくちゃダメよ」
「は、はい」
夫人は、まるで少女に戻ったかのようにウキウキとして、帽子やアクセサリーを持ってきてはわたしに合わせる。
サロンにはたくさんのトルソーが持ち込まれ、そのまわりをお針子さんたちが忙しく動き回っていた。
まるで舞踏会の準備をしているみたいだ。……わたしとしては、そんなもの行く機会もないし行きたくもないのだけれど。
夫人くらいの美人だったら、着飾ってどこかへ出かけるのは楽しいだろうなと思う。金茶色の髪も灰青の瞳もキラキラとして今なお魅力的だ。
でも、わたしは平凡で冴えなくて、おまけに平民だ。綺麗な服を作ってもらっても持て余してしまう。
「たくさん作っておけば、学校に帰ってからもしばらくお洋服に困ることはそうないわよね」
夫人は運ばせたお茶を口にしながら、満足げに頷いた。しばらくどころか、ドレスだけなら一生困らないほど仕立ててもらった。
「あの……どうしてわたしにここまでしてくださるんですか?」
お茶をすすりながら尋ねると、夫人はその綺麗な目を細めてわたしを見つめた。
「私、娘も欲しかったの。だから、あなたにお洋服を選んであげながら、年頃の娘がいたらこんな感じかしら……なんて考えていて。子供を産めなかったから、可愛がることができる子供に出会ったら遠慮なく世話を焼くのよ、私」
「……ありがとうございます」
夫人の笑顔があまりにも優しくて、わたしはこみ上げてくるものをごまかすために、お茶と一緒に出されたビスケットへ手を伸ばした。
母も、生きていれば夫人と同じくらいの年齢だーーそんなことを考えてしまうと、どうしても、少しだけ辛い。
「マティウスは、お腹を痛めて産んだわけではないけれど、私の可愛い子供なの。……よろしくね」
「はい」
ああ、この人はお母さんなのだなと、夫人の笑顔を見て思った。
夫人の気持ちに報いることができるよう、わたしな努力するつもりだ。
昨日の戦闘訓練で疲れたからと、いつもより早い時間にベッドに入ったのが原因らしい。
寮にいた頃はどんなに疲れていても本を読んで夜更かししてしまっていて、どうしても早くには起きられなかったから、こんなふうに朝の淡い陽射しを目にすることなんて滅多にない。
窓際に立って大きく伸びをすると、何だか随分と遠くへ来たような気がした。
「おや、カティさま。おはようございます」
「おはようございます」
喉が渇いていたから何かもらおうと厨房へ行くと、そこには紅茶を淹れているセバスティアンがいた。
「それは……?」
「マティウスさまは朝が弱いので、眠気覚ましのストロングティーをお淹れしているんです。カティさまもご一緒されますか?」
「ううん。お水をもらいにきただけだから。……って、わたしはいつからカティさまになったの?」
「マティウスさまの大切なご友人ですから」
好々爺は、涼しい顔で茶器のしたくを整えながらそんなことを言う。……本当、このジジイは何考えているのだろう。
「マティウスさま、良い子ですね」
「ええ。坊っちゃまは良い子ですよ」
「何の問題もないじゃない」
「……ずっと、そう言っていただけると良いのですが」
「何を隠してるの? この仕事、おかしくない?」
「隠し事など、何もございません。坊っちゃまが抱えている問題は、最初にお伝えした通りです」
厨房からマティウスの部屋へ向かう道中、何か聞き出せるかと思ったけれど、ジジイは柔和な笑みを浮かべたままだった。
別に何もないならないで、わたしは楽々仕事を終えてがっぽりお金をいただくだけだから良いのだけれど。
……ただ、この二日でちょっぴりマティウスに対して情が生まれてしまったから、知るべきことがあるなら知っておきたいのだ。
「奥様でも旦那様でも、ましてや子供のときからおそばにいるわたくしでは、気づいて差し上げられないことがあるのです。踏み込めないことも、たくさんございます。ですから、カティさまを頼ったのですよ。……何卒、よろしくお願いいたします」
好々爺はそう言って深々と頭を下げると、マティウスの部屋へ入っていった。
食えないジジイだと思うけれど、坊っちゃまへの愛は本物らしい。
「踏み込めないこと、ねぇ……」
マティウスに対して問題を感じていないわたしとしては、その言葉に違和感しか残らない。でも、気を引き締めて臨まねばならないのだなという意識にはなった。
「マティウス、今日はカティを借りてもいいかしら?」
朝食の席にやってきた夫人は、開口一番そう言った。マティウスは一瞬キョトンとした顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。
「よかった! この前注文したお洋服の仮縫いが済んだってことだから、せっかくなら屋敷に仕立て屋を呼んで調整したり他のものを見立てたりしましょうって思ったのよ」
「そういうことなら、私は構いません」
「そうよね! マティウスもカティが可愛いお洋服を着ると嬉しいものね!」
「そうですね」
ちょ、ちょっと待って! ーーわたしはそう口を挟みたかったけれど、パンが、ハムが、思いのほかかさばってなかなか飲み下せなくて、もぐもぐやっているうちに二人の間で話が終わってしまった。
それにしても、何て適当な返事をするんだマティウス!
マティウスは興味がないのか黙々と食事に戻っているし、夫人はニコニコとこちらを見ているし。
そんなわけで、わたしは夫人の着せ替え人形になることが決まってしまった。こんな骨ばった体に何を着せてもどうしようもないのに。
何の足しにもならないかもしれないけれど、とりあえずわたしは残りの食事を胃に収めることに集中した。
「まぁ、カティはこの色も似合うわねぇ」
夫人は何回目かの同じ台詞を言って、わたしに高そうな布を押し当てた。
一体わたしに何着服を仕立てるつもりなのやら。しかも、フリフリふわふわとした実用性に乏しいものばかり。貴族の令嬢ならいざ知らず、わたしはそれをどこへ着ていけばいいのだろう。
「髪も目も綺麗な色をしているものね。本当に、着映えがするわぁ」
「そんな……髪も目もただの茶色ですよ」
「ただの茶色! そんなふうに言うものじゃないわ。髪は鳶色だし、目は琥珀色。自分の魅力はきちんと表現できなくちゃダメよ」
「は、はい」
夫人は、まるで少女に戻ったかのようにウキウキとして、帽子やアクセサリーを持ってきてはわたしに合わせる。
サロンにはたくさんのトルソーが持ち込まれ、そのまわりをお針子さんたちが忙しく動き回っていた。
まるで舞踏会の準備をしているみたいだ。……わたしとしては、そんなもの行く機会もないし行きたくもないのだけれど。
夫人くらいの美人だったら、着飾ってどこかへ出かけるのは楽しいだろうなと思う。金茶色の髪も灰青の瞳もキラキラとして今なお魅力的だ。
でも、わたしは平凡で冴えなくて、おまけに平民だ。綺麗な服を作ってもらっても持て余してしまう。
「たくさん作っておけば、学校に帰ってからもしばらくお洋服に困ることはそうないわよね」
夫人は運ばせたお茶を口にしながら、満足げに頷いた。しばらくどころか、ドレスだけなら一生困らないほど仕立ててもらった。
「あの……どうしてわたしにここまでしてくださるんですか?」
お茶をすすりながら尋ねると、夫人はその綺麗な目を細めてわたしを見つめた。
「私、娘も欲しかったの。だから、あなたにお洋服を選んであげながら、年頃の娘がいたらこんな感じかしら……なんて考えていて。子供を産めなかったから、可愛がることができる子供に出会ったら遠慮なく世話を焼くのよ、私」
「……ありがとうございます」
夫人の笑顔があまりにも優しくて、わたしはこみ上げてくるものをごまかすために、お茶と一緒に出されたビスケットへ手を伸ばした。
母も、生きていれば夫人と同じくらいの年齢だーーそんなことを考えてしまうと、どうしても、少しだけ辛い。
「マティウスは、お腹を痛めて産んだわけではないけれど、私の可愛い子供なの。……よろしくね」
「はい」
ああ、この人はお母さんなのだなと、夫人の笑顔を見て思った。
夫人の気持ちに報いることができるよう、わたしな努力するつもりだ。