医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ
第十話 噂と影

 フィオーネが学院にやってきて一ヶ月半ほど経ったある日の朝のこと。
 いつものようにベルギウスが来るまでに身支度を整えているところへ、耳障りな音が聞こえてきた。
「え? 蜂? どこから? ……って、これは伝書蜂?」
 不快な羽音に危険を察知してよく見てみれば、それは普通の蜂の何倍もの大きさの、金属でできた蜂だった。
 ようやく、話には聞いていた伝書蜂をようやく見ることができた。
「刺さないよね?」
 フィオーネはおそるおそる、その蜂が六本の足に大事そうに抱えていた紙筒を抜き取る。その紙筒を広げたのを確認すると、蜂はまたどこかへ飛んでいってしまった。
「あ、ベルギウス先生の蜂だったんだ。へぇ、私も自分のを買おうかな」
 手紙を広げると、それはベルギウスからだった。さっきの蜂は針金でできた眼鏡のようなものが目元についているのが気になっていたのだけれど、もしかしたらあれはベルギウスの蜂である印だったのかもしれない。
「今から生徒と一緒に行く、かぁ」
 ベルギウスからの手紙はとても短いもので、これから生徒を何人か連れて行くからそのつもりで、という内容だった。
 気分が悪い子を連れて来るのなら、わざわざ手紙で前置きなどしないだろう。
「わざわざ言うってことは、何か訳あり? んー、めん……」
 面倒くさい、と言いかけてフィオーネはやめた。
 生きていると、本気で面倒くさいことはある。そういったことに対してどうしようもなくげんなりとして、「面倒くさい」という言葉がもれてしまうのはきっと仕方がない。でも、それ以外のときには、あまり言わないようにしようとフィオーネは決めたのだ。
 もし頑張りすぎるときは、ダリウスが止めてくれると言った。だから、もう「面倒くさい」と言って自分をセーブする必要はない。
 あの日、ダリウスが言ってくれたことが、能力を使って教えてくれた母の真実がフィオーネの心を救ってくれたのだ。
「じゃあ、とりあえずお茶の用意でもしようかな。カイザァはちょっと待っててね」
 生徒たちを迎え入れる用意をしようと、フィオーネは白いローブをまとい、ケトルをコンロにかけた。
 

「眠れないって、一体いつから?」
 ベルギウスが連れてきたのは、まだ学院生活に慣れていない様子の一年生の女子三人だった。
「えっと、たぶん一週間くらい?」
「うん。あたしは、この三日は全然眠れてないの」
「もっとかな? とにかく怖いの……」
 連れられてきてすぐはもじもじとして話さなかった女子生徒たちだったけれど、お茶を勧めたりベルギウスが水を向けたりするとポツポツと口を開くようになった。
 どうやらベルギウスが付き添って来たのは、彼女たちが医務室を怖がっていたかららしい。正確には、フィオーネのことを。
「怖いから眠れないの? その怖いのをどうにかしろってこと? えー、私も怖いの、そんなに得意じゃないんだけど」
 なかなか話の核をつかむことができず、フィオーネは困惑した。
「魔女でも、怖いの得意じゃないんだ」
「魔女なのに?」
「魔女のほうが、怖いんじゃないの?」
 困惑するフィオーネを見て、女子生徒たちはコソコソとそんなことを言い合う。
 彼女たちがフィオーネを怖がっていたのは、フィオーネを“悪い魔女”だと思っていたからだった。
「あのねぇ、魔女って言っても、あなたたちと何も変わらないのよ? 別に鋭い爪や牙があるわけじゃないし、オバケだって怖いし」
 フィオーネが悲しそうな顔を作って言えば、女子たちは不思議そうする。“医務室には悪い魔女がいて、女子生徒は若さを吸われる”という噂が流れていたようだけれど、本人を前にそれを信じ続けるのは難しいのだろう。
「こうして連れてきたのは別にオバケ退治を頼みに来たわけではないんだ。とにかく、今女子生徒たちの間で流行っている寝不足を解消しなければと、そう思ってリッツェルさんに相談に来た」
 なかなか話が本筋に入らないのにしびれを切らし、ベルギウスがそう口を開いた。この件で彼も疲れている様子だ。生徒たちの講義中の居眠りが増え、それをどうにかするようにと他の先生たちから言われているようだ。年少の教師というのは、何かと大変だ。
「まぁ、寝不足だっていうのなら医務室のベッドで休ませてあげることはできますし、安眠を促すハーブティーを出してあげられますけど、それじゃ根本解決にはなりませんもんね……」
 精神的な不安などから眠れないのであれば、それでも休息やハーブティーを与えてやることでいいのだろう。けれど話を聞く限り何か怖いもののせいで眠れなくなっているというのだから、それが何かを突き止める必要がある。
「まさかリッツェルさんの口から根本解決という言葉を聞くとは思わなかったが……いや、君は『面倒くさい』と言いつつ、いつも頑張ってくれているからな」
 考え込む様子のフィオーネを見て、ベルギウスは目を丸くした。心外だと一瞬フィオーネは思ったけれど、これまでがこれまでだから仕方がない。
「えっと、その怖いのっていうのはあくまで噂? それとも、あなたたちは見たの?」
 気を取り直して、フィオーネは改めて女子生徒たちに尋ねた。
 オバケが本当にいるというのなら先生たちや専門の人に動いてもらわなければならないし、噂を信じ込んでこんなふうに思いつめているのなら相談室のアンヌに任せたほうがいい。その判断をするためにも、詳しく話を聞く必要がある。
「……最初は、ただの噂だったの。女子寮に“悪口を食べる影”がいるって。その影は悪口を食べて大きくなって、どんどん大きくなったら、最後は悪口を言う子を食べちゃうんだって……」
 ひとりの子がそうして口を開くと、残りのふたりもうなずきながら震えていた。
「最初はただの噂だったってことは、あなたたちは見ちゃったのね?」
 フィオーネが尋ねると、女子生徒たちはふるふるとうなずいた。
「……見ただけじゃなくて、実はあたしたち、悪口を食べられちゃったの」
「どういうこと?」
「あたしたちが悪口を言ってるときにその影がやって来て、通り過ぎるとき、大きくなったの……それって、あたしたちが言ってた悪口を食べて大きくなったってことでしょ?」
 それまで気丈に三人を代表して話していた女子生徒は、思い出して怖くなったのか泣き出してしまった。
 涙や恐怖は伝染する。震えているだけだった残りのふたりも、シクシクと泣き始めた。
「どうも女子たちの間だけで流行っている噂のようだが、何せ話してくれたのがこの三人だけだから、情報が少ない。ただ、他の生徒たちが話していたことを断片的に耳にした限り、どうやらその影はどんどん大きくなっているらしい。それで、こんなに怖がっているんだ」
 そう補足をしつつも、ベルギウスは半信半疑のようだ。無理もない。こういった不思議な噂話に敏感なのは断然女性が多く、男性は疎いものなのだから。
「安心させるためにも、一度きちんと検証してやる必要があるとは思っているのだが、いかんせん女子寮でのことではあるし、実際に体調を崩している生徒もいるということで、リッツェルさんに話を聞いてもらいたかったんだ」
 ベルギウスは申し訳なさそうに言った。彼自身が半信半疑なのだから、フィオーネを巻き込んでいいものかという葛藤は当然あるだろう。
「いいですよ。広い意味で言えば、これもきっと医務室の仕事でしょうから。それに、放っておくとさらに体調を崩す生徒が増えるかもしれませんし」
 フィオーネがそう言うと、ベルギウスはホッとした顔をした。
「すまない。よろしく頼む」
「はい」
 疲れた様子のベルギウスを安心させてやりたくて、フィオーネはうなずいた。


(さてさて、どうしたものかな)
 一限の終わりまで女子生徒たちを医務室のベッドで休ませてやり、二限の講義へと送り出してから、フィオーネは女子寮にやってきていた。
 何か対策を打つにしても、下見の必要があると考えたのだ。というよりも、その影とやらがいるのなら目撃してみなければと思ったのだ。
 とはいえ、闇雲に歩き回っても見つかるかどうかはわからない。
 生徒たちはみな講義を受けるために教室棟のほうへ出払っている。その無人(正確には寮母さんがいるけれど)の寮内を歩いていると、言い知れない不安感に襲われる。
「カイザァ、何だか気味が悪いね」
 心細くなったフィオーネは、腕に抱いたカイザァにそう声をかけた。
 カイザァは何も言わないけれど、目をしっかり開けている。耳もひげもピンとして、何だか緊張しているみたいだ。
 中庭に植えられている木々が影になって、寮の建物にはあまり陽が入ってこない。そのせいで昼間なのにひんやりとしている薄暗い廊下を歩いていると、フィオーネは何だか不安になってきた。
(この胸がザワザワする感じ、裏山の空気に似てるのかも……)
 貴重な薬草が生えていたけれど、あの空気が怖くて、あれ以来フィオーネは裏山に近寄っていない。野生化した魔術道具に噛まれるのも危険な動植物に遭遇するのも怖いし、何よりあの瘴気の濃い空気が嫌なのだ。
 その避けていた空気がなぜだか、この寮には漂っている。
 そのことに気がついたとき、フィオーネの背筋にぞわりとしたものが走った。
「…………っ」
 異様な気配は、すぐそこまで迫っていた。
 それは、圧倒的な違和感。何かおかしなものが近づいていることはわかるのだけれど、それを何と表現していいのかがわからない。
「……ひっ」
 少しだけ振り返り、目の端でその姿を確かめ、フィオーネはたまらず走り出した。
 それは影だった。影としか表現しようのないものだった。けれど、影とはまったく異なるものだった。
(やばいやばい! あれはやばい!)
 影は動き回らない。それなのに、それはひどくゆっくりとではあるけれど、確実に意思を持って動いていたのだ。
 これは生徒たちが怖がるのもしかたがないなどと他人事のように思いながら、フィオーネは階段を駆け降り、寮の玄関に向かった。
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