医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ
第十六話 触れないままでいられるか
 沈黙が支配する空間で、フィオーネはこっそり息をついた。
 長い語りを終えて疲れたけれど、まだくつろぐことはできない。勝手知ったる医務室や自室ではないということもあるけれど、何より不気味な収集品たちに囲まれて見つめられているようで、落ち着かないのだ。
 フィオーネは今、アンヌの相談(カウンセリング)室に来ている。夕方ダリウスから聞いたことを報告するために。
 ダリウスには、きちんと許可を得ている。教師たちは情報をきちんと把握する義務があるということを伝えると、「フィオが説明してくれるのならいいや。余計な脚色はしないでくれるだろうし」と、すんなり了解してくれた。
 夜になってアンヌを訪ねると、そこにちょうどベルギウスもいたため、彼らにダリウスから聞いたことを語ったのだった。
「内情はそうなっていたのか……我々の目には、優秀で人気者の生徒の失墜劇にしか見えていなかった」
 しばらく考え込んでいたベルギウスが、ようやくそう口を開いた。彼やアンヌの様子を見る限り、ダリウスの事件が彼ら教師にも深い爪痕を残していることがわかる。
「とにかくあのときは、彼の心が壊れてしまわないようにするのに必死で、詳しい事情を語らせるよりも何よりも、守らなきゃって思っていて……」
 後悔のにじむ声で言うアンヌに、フィオーネは首を振った。
「もう気に病む必要はないんです。ダリウスはそういうことは望んでいないみたいです」
 ダリウスは誰かに可哀想がられたいわけではないと、フィオーネは理解している。一緒に傷ついて欲しいわけではないのだとも。
 彼はただ、終わったこととして一年前のことを周囲にも受け止めて欲しいのだろう。そうしなければ、前には進めないから。
「フィオーネさんに話したことで、もうフラッシュバックの心配もないのかしらね」
「たぶん。ずいぶんと整理はできたみたいです」
 夕方に中庭で話したときのダリウスの様子を思い出して、フィオーネは言った。昨日はひどかったけれど、今日は表情もあって彼らしいことも言えていた。試験についても、前向きな発言ができていたから、かなりよくなってはいるはずだ。
「それなら、よかったわ」
 悪意たっぷりの事件の真相を聞いたばかりだからか、微笑みながらもアンヌは歯切れが悪い。フィオーネもまだすっきりしていないから、気持ちは理解できた。
「それにしても、そんなふうにうまい脚本を書いた人間がいたんだな」
 二人の話を聞きながら何かを考え込んでいた様子のベルギウスが、そう苦々しげに言った。それを聞いて、フィオーネはハッとする。
 ハンスのやったことは、行き当たりばったりの嫌がらせではない。的確に、確実に、効果的にダリウスを潰そうと計画してやられたことだ。彼を学院中の人気者にしたことすら、失墜したときの周囲への影響を考えた結果だ。
 十代の少年がそんなことをやろうと考えたことが、そして実際にやってのけたことが、フィオーネは気味が悪くて怖いと思った。
「あの、ハンスって、どんな生徒だったんですか?」
 それは、気になっていたことではあったけれど、ダリウスには聞けないことだった。それに、彼にとってハンスを客観的に語ることはできないはずだ。
 客観的な印象を知るには、逆に深く関わっていないほうがいいだろう。そう思って尋ねたのだけれど、ベルギウスもアンヌもすぐには答えてくれなかった。
「……こう考えてみると、印象の薄い生徒だったな」
「ええ。ノイバート君の隣にいつもいたということは覚えてるけど、彼自身がどういう生徒だったのかというと、答えられないわね」
「そうなんですね……」
 少しでもハンスについて知ることができればと思っていたのに、二人から有益な情報を聞き出すことができなかった。それだけに、ハンスという人物の不気味さが増した気がする。他人に自分の印象を残さないというのも、おそらく彼の能力なのだろう。
 そうまでしてハンスがしたかったこと……それについて考えると、フィオーネの心はズンと重くなる。
「人が絶望するところが見たいって、一体どんな気持ちなんでしょうか……」
 心底理解できなくて、フィオーネはポツリと呟いた。生まれてこの方、そんな感情を抱いたことがないからわからない。
 他人の不幸が見てみたいというのなら、ギリギリ理解できるかもしれない。でも、綿密に計画して絶望を生み出すなんて、常人に理解できることではないのだろう。
「怪物のことを知ろうとしすぎると、自分もまた怪物になってしまうのよ。……わからないままにしておくほうがいいこともあるわ」
 考え込むフィオーネに、なだめるようにアンヌは言う。悪意を真に理解しようと昏い淵に手をかけていたことに気がつき、フィオーネはあわてて首を振った。
「そうですね。一応はまっとうに育てられている私に、わかるはずもありませんでした。……わかりたくもないですし」
 叔母のクララは、フィオーネに「人は人、自分は自分」と徹底的に教え込んだ。そうすることで自分より恵まれている人間を妬まないように、自分より劣ったものを見下さないようにと躾けたかったらしい。でも、そのおかげで他人の絶望が見たいなどと歪んだ願望を持つ人間には育たなかった。そのことを、フィオーネは今この瞬間ものすごく感謝した。
「……おいしい」
 もう考えるのはよそうと、フィオーネはアンヌがカップに注いでくれた紅茶のおかわりに口をつけた。日頃、自分で葉の調合から行ったハーブティーばかり飲むせいか、誰かに入れてもらった紅茶を飲むのは新鮮だった。
 心に引っかかることはあるけれど、ダリウスの件は解決したことだと考えようと、紅茶のいい香りを味わいながら思った。
「これでノイバート君が無事に試験を乗り越えてくれれば、心配がまた減るわね。……一年前はノイバート君も大変だったけど、彼のことを好きだった生徒も精神的なダメージを受けて大変だったのよ」
 遠い目で、アンヌは話題をまた一年前のことに戻した。
 精神的なダメージということは、きっと医務室よりも相談室が忙しかったのだろうと、フィオーネも遠い目になる。医務室の先生は生徒を手当てし、薬を出せばいいけれど、相談室の業務はそんなにシンプルではないだろう。
「ダリウスのことを好きな生徒たちって、いわゆる親衛隊ってやつですか? エミールが言ってたんですけど」
 フィオーネの頭には、ナターシャとリリアの顔が浮かんだ。
「そうね。……そういうギュンター君だって当時、大変だったのよ。人々の注意の矛先を変えようとしたのか、突然かなりの暴れん坊になってね。確かに彼がいろいろ派手にやったおかげで、ノイバート君の事件の鎮火は早かったと思うけど」
「元から自由奔放なわけじゃなかったんですか?」
「ああ。かつてはただの女装男子だった。服装以外は品行方正で成績優秀の、男女どちらからも慕われる模範生だったんだ」
「へ、へぇ」
 今のあの暴れん坊っぷりからは想像できない話に、フィオーネは苦笑するしかなかった。
 憧れのダリウスに敵わないとわかったからと女装して可愛さの頂点を目指すという時点で変わり者ではあるけれど、現在の奇行はたった一年前からというのは驚きだ。
「ショックでぐれちゃったんですね」
「そうみたい。自分も含め、ノイバート君のファンを名乗る人が許せなかったみたい。『守れなかったのに、何が親衛隊だ! 先輩に必要なのは崇拝者じゃなくて理解者だ! 遠巻きに見るんじゃなくて対話しなくちゃ。 好きなら孤独なままにしておくな!』って周りの子たちに啖呵を切ったらしいわ」
「そうだったんですね。……エミールみたいな子の存在があったから、ダリウスは休学はしつつも、辞めずにいられたんでしょうね」
 エミールの奇行にそんな深い理由があったのかと、フィオーネは呆れを通り越してしみじみと感動した。
「リッツェルさんの存在も、彼にとっては大きな支えになっているはずだ。人目を避け、医務室を拠り所にしていた彼が、君にこんなに関心を持って自分から接していくなんて、かなりの進歩だったんだ」
 エミールの熱意と情熱に感心していたフィオーネに、ベルギウスは言った。まさかそんなことを言われると思っていなかったから、フィオーネは面食らう。
「そんな、私はなぜか懐かれただけで、何もしてませんし」
 フィオーネがしたことといえば、ダリウスの初対面からの熱烈すぎるアプローチを何度も断って、適切な距離を取るよう言っただけだ。
 思えば、春休みなのに医務室のベッドで勝手に寝ているなんて普通のことではないのに、そんな彼に対してフィオーネは特別な気遣いをすることはなかった。
 医務室の先生に求められる優しさというものは、あのときのフィオーネには皆無だった。
「知りたがろうとか、特別な関心を払うことだけが優しさではない。優しい無関心というものが必要なこともある。きっと、出会ったときのリッツェルさんの接し方が、ノイバートのちょうど求めているものだったんだろう」
 ポジティブな感情が見えにくいベルギウスの顔に、わかりやすく笑みが浮かんでいた。それは誇らしげで、褒めるときの顔だなとわかり、フィオーネは面映ゆくなる。
 でも、すぐに胸の奥がチクリとした。
(今は、無関心でなんて、いられないかも……)
 出会ってすぐ、フィオーネがダリウスに無関心でいられたのは、彼と親しくなかった上に、まったく興味がなかったからだ。
 他人と関わるのなんて、誰かのために過剰に一生懸命になるなんて、面倒くさいと思っていたからだ。
 その部分の根本は変わっていないつもりだけれど、自分に一生懸命になってくれる人に対しては別だ。
 フィオーネが困ったときに迷わず手を差し伸べてくれるダリウスに対して、今後も出会ったときと同じような無関心ではいられないだろう。
 親しくなれば、触れずにいることは、難しい。
 そうなれば、フィオーネはダリウスにとって必要な“優しい無関心”な人ではなくなる。ダリウスにとって必要な存在ではなくなってしまう。
 そんなことを考えると、親しくなった者としては複雑だった。
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