医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ
第二十話 幸せへと歩き出す
椅子に座って、フィオーネはじっとダリウスを見つめていた。寝台に横たわったダリウスは疲れた顔で眠っている。でも、命に別状はないらしい。
裏山で倒れたのは攻撃を受けたのもあるけれど、疲労と魔力の消耗が大きかったということだ。だから、ぐっすり眠れば回復するし、そのうち目が覚めるだろうとベルギウスは言っていた。
それでもフィオーネは不安で、ダリウスが目を開けるまでホッと息をつける気がしなかった。
早く目を覚ましてほしい。目覚めた彼に、きちんとお礼を言いたい。
そう思うと気が急いて落ち着かない。隣の居室からゆったりとした水の音とのんきな鼻唄が聞こえてくるのが救いだ。
「フィオちゃん先生ー、お風呂ありがと」
「はーい。あ……」
ポカポカしながら、エミールが隣室から出てきた。大トカゲを倒した際に汚れた彼にお風呂と着替えを貸したのだけれど、上がってきた姿を見て、フィオーネは絶句した。
「ちょっと、私の服、小さかったね……」
そうフォローしようにも、ちょっとどころではなく小さい。それを見ると、華奢で完璧な美少女に見えても、やはり彼は男の子なのだとフィオーネは実感した。
「そりゃ、本物の女の子であるフィオちゃん先生と比べたら、骨格がちがうからね。どう? 僕のこと、男だって意識しちゃった?」
美少女の顔に男っぽい表情を浮かべたエミールには、アンビバレントな魅力があった。それを見てフィオーネは一瞬ドキリとしたけれど、それもすぐに落ち着く。
「そうだね。戦ってるときもすっごく強くて頼もしくて、かっこいいなって思ったよ」
「あれえ。余裕の受け答えだなぁ。……まあ、しょうがないか。ダリウス先輩、こんなに頑張ったんだもん。フィオちゃん先生もいよいよ惹かれちゃうよね」
ダリウスに視線を注ぎ、ただ凪いだ表情をしているフィオーネを見て、エミールは優しい顔になった。
「本当に、私とカイザァのためにすごく頑張ってくれて……」
自分のためにダリウスが体を張って無茶をしてくれたのだと思うと、フィオーネの胸はキュッと痛んだ。嬉しいのと、申し訳ないのとで。
「それにしても、ダリウス先輩はやっぱ優秀だよね。危ないって思ったらすぐに救難信号を送って、助けが来るまでフィオちゃん先生を守って戦って」
「そうだよね。私なら、そんな冷静な判断ができなかった」
大トカゲの気配を察知してすぐに彼が助けを求めていたのだと、あとになってフィオーネは知った。その判断力と行動力に、ダリウスが学生として、魔術師として、優秀なのだと改めて感じた。
「もともと優秀だし、人間としても成長したんだと思う。以前の先輩なら、きっと誰かに助けを求めたりしなかっただろうね。人間不信だったから。でも、先生のこと守んなきゃって思いと、先生のおかげで変われた部分があったから、ちゃんと人を頼れるようになったんだよ」
嬉しそうに、ホッとしたようにエミールは語る。それを聞いて、フィオーネも安堵するようなくすぐったいような気持ちになった。
「先生さ、ダリウス先輩のこと好き?」
もう答えはわかっているだろうに、エミールはいたずらっぽい表情で問う。自分の中できちんと意識していたはずなのに、そうやって問われてフィオーネの頬は赤くなる。
「……うん。好き。他の女の子たちみたいに必死じゃないし、駆り立てるような気持ちがないからちがうのかもって思ったけど……こんなにまっすぐ気持ちを向けてくれる人、ほかにはいないって気づいたら、ダリウスのことが大切だってわかったの」
まだ迷いもあるし、うまく言葉にできていない。それでも、ダリウスを尊敬し、大切に思っているエミールの問いに、フィオーネも真摯に答えたかった。
「そっか。……よかった! じんわり、じっくり好きになることもあるよ。起きたら、ダリウス先輩にも伝えてあげてね!」
「うん」
それはそれ嬉しそうに笑うエミールに、フィオーネも嬉しくなって笑った。まだ本人にも伝えていない思いだけれど、この恋を祝福してもらえているようで。
誰かを大切に思うこと。誰かに大切に思われること。かつてのフィオーネにとってはそれは、重くて面倒くさいことだった。でも今は、そういった心を厭う気持ちはない。
「じゃあ、服は洗って返すねー」
「エミールも、ゆっくり休んでね」
寮へ帰るエミールを見送ると、また医務室の中は静かになった。その静けさをもてあまして、フィオーネはベッドの端で丸くなっているカイザァを撫でた。カイザァもダリウス同様、別に異常はなかった。
ただ、ベルギウスの言っていた言葉が、フィオーネは気になっていた。
『猫の移動範囲は、そんなに広くないんだ。裏山までの距離をカイザァだけで行き来したのだろうか……』
フィオーネよりも猫に詳しいベルギウスの言葉に、フィオーネはハッとしたのだ。
散歩に行かせても、いつもきちんと帰ってくるからと、深く気にしていなかったけれど、確かにあの小さな体で裏山までの道のりを歩いたというのは不自然だ。
ベルギウスははっきりとは言及しなかった。それでも、今回のことに何者かが関与していることは明白だ。そのことを考えると、何もまだ解決していないのだという不安が胸の中にシミのように広がる。
「……ぅ」
「ダリウス?」
ほのかな不安をしずめようとカイザァを撫でていると、ダリウスが眉間に皺を寄せ、小さく呻いた。
目が覚めたのなら、きちんとお礼を言いたい。でも、意識が戻ったらアンヌを呼びに行くよう言われていたのだ。大トカゲとの戦闘と裏山の瘴気で精神面に悪影響が残っていないか、すぐにきちんと確かめなければいけないらしい。
「ダリウス、すぐ戻るから。カイザァ、お願いね」
そばを離れるのを不安に思いながらも、フィオーネは椅子から立ち上がった。
すぐ隣に行くだけだ。呼んで戻ってくるのに、そんなに時間はかからない。
そんなふうに焦っていたから、フィオーネは廊下がおかしなことになっているのに気づけなかった。
「え……?」
ぐんにゃりと歪む景色に、思わず目をこすった。でも、相変わらず目の前はおかしい。まるで揺れる水面越しに世界を見ているみたいだ。
「つっかまえった」
「……!」
一文字一文字、跳ねるような軽薄な物言いが聞こえた直後、フィオーネは背後から目を塞がれた。気持ち悪くて、一気に鳥肌が立つ。
「……あなた、ハンス?」
信じられないような気持ちで、フィオーネはその名を口にした。その存在を知ってからずっと、気がかりで、畏怖していた者の名を。
ダリウスを傷つけ、おそらく今なお彼を狙う者として、フィオーネはハンスを警戒していたのだ。
「あれ、名乗る前にバレちゃったか。そっか、俺のことを知ってるんだね」
パッと手を離すと、ハンスはフィオーネの前に回った。そして頭ひとつ分高い位置から、フィオーネを見下ろす。
「どうも、医務室の魔女さん」
口角を上げるだけで、ハンスは笑みを作ってみせた。顔の印象が薄いからか、よくよく見なければきちんと笑っているように見える。でも、目がまったく笑っておらず、それに気づくと不気味さが際立つ。
「俺のことを知ってるってことは、ダリウスが話したのか。……勝手に立ち直られちゃ困るんだけどなあ。あいつにはずっと絶望してもらわなきゃ。もっともっと大きな、たくさんの絶望が必要なんだよ」
「なっ……」
クスクスと、まるで楽しいことを話すかのようなハンスの口調に、フィオーネは身体中の血液が沸騰するかと思った。
他者の不幸を、絶望を欲する目の前の男の気持ちが理解できなくて、腹が立って、怒りのあまり目眩がしてきた。
「理解できないって顔してるね。まあ、俺も魔女になんて理解されたくないけど。……人間社会で暮らしてるからって、自分のことを人間だなんて勘違いしちゃだめだよ、魔女さん」
片頬だけ上げる嫌な笑い方とその口から発せられた言葉に、フィオーネは嫌なことを思い出した。この世界には、こういった差別主義者が存在するということを。
魔女や魔法使いは、なるものではなく生れつくものだ。能力の差はあれ、生まれたときから魔法が使える。
そこが、後天的に習得して魔術を使う魔術師とはちがうことろだ。
魔術師も目指せば誰でもなれるものではないけれど、魔女や魔法使いはなろうと思ってもなれない。そこのちがいや隔たりゆえに、魔女や魔法使いを毛嫌いし、人間扱いしない者もいる。
そのことを、フィオーネは久しぶりに思い出した。
「私も、あんたみたいな頭のおかしい人間と話すことなんてない! だから早く元の場所に戻して」
軽蔑と敵意を隠さない目で睨みつけ、フィオーネはハンスを見上げた。中に制服を着ていないまでも、ローブを羽織って学院の中にまぎれこんでいたであろうその姿が憎たらしくて、牙をむきたい気持ちになる。
そんなフィオーネを、ハンスは小馬鹿にしたのを隠さない表情で笑った。
「魔女っつっても薬作るくらいしかできない劣等種が吠えんなよ。本当は今すぐお前なんて殺したっていいんだけどさ、それじゃ周囲へ与える絶望が少なすぎんだよ。いいか? お前は、絶望を生み出すための生贄なの。生贄はさ、効率よく活用しなきゃね」
ニタニタしながら、ハンスはフィオーネの頬に触れた。それをフィオーネが払いのけると、今度はその手につかまれた。
「俺はさ、この世の中全体が絶望に包まれたところを見てみたいんだよ。絶望とか憎悪とか悪意とか、黒くてドロドロしてどうしようもない感情に。だってさ、幸せなやつとか楽しいやつがいるのに、どっかで苦しんでいるやつがいるのはおかしいだろ? でも、世の中すべてが幸せになんて無理だ。だから俺は、みんなが平等に不幸な世界を目指す。みんなみんな不幸になって、ぐちゃぐちゃになって、憎みあって恨みあえばいい」
言いながら楽しくなったのか、ハンスは途中から笑い出した。
耳障りな、嫌な笑い声だった。
その声に、フィオーネはズキリと頭が痛んだ。つかまれた手も、疲れて力が抜けていくような気がした。それで、フィオーネは気がついた。
(この人、身体から瘴気が出てる……絶望と憎悪にまみれて、生きながら人じゃなくなってるんだ)
気味の悪さにゾワッとして、思わず身震いしてしまう。目の前にいるのは、人の姿をした、もう人ではないものだ。そのことが怖くて、悲しくて、フィオーネは唇を噛みしめた。
「ていうわけで、今からお前のことをひどい目に遭わせてやる。本当は、あの猫を沼に落として化け物に変えてやろうと思ってたんだけどな……まあ、あれはあれで面白いもんができたからいいや」
「私の猫は関係ないじゃない……どうして、私に何かしようとするの?」
笑うのをやめて、ハンスはフィオーネを見据えていた。闇色の、奈落のような瞳で。
「希望は、早めにつぶしとかないとなって思って。お前はさ、ダリウスの希望なんだよ。それに、この学院の希望だ。みんな、お前を親切で優しい存在なんだと思って、心の拠り所にしてる。お前は親切なんじゃなくて、弱った人間に手を差し伸べて、感謝されて、それてようやく自分の存在価値を見出す薄汚いやつなんだよ。そんな薄汚い存在でも、ダリウスが立ち直るきっかけなら邪魔なんだよ」
ハンスの言葉は、グサグサとフィオーネの胸に刺さった。彼は、人が気にしていることを的確に指摘する能力に長けている。人の弱いところや痛いところを突くのが上手い。
だから、フィオーネは彼の言葉に自身がひどく傷つけられているのを感じていた。
でも、目をそらすことができない。
「……苦しくても、こんなところにいたら、だめだと思うよ」
肺に息が入っていかないような気がして、浅く呼吸を繰り返しながらフィオーネは言った。届かないかもしれないと、大部分では思いつつも。
一体何があって、ハンスはこんなに歪んでしまったのだろうと考える。そんなの、わかるわけないし、わかりたくもないけれど。
でも、目の前のハンスの姿は、もしかしたらダリウスや自身の姿だったかもしれないと思うと、簡単に捨て置くことができなかった。
「別に、だめでもクズでも役立たずでも、生きてていいと思うよ。今日不幸でも、今までずっと不幸でも、明日はもしかしたら、ちょっと幸せになれるかもしれないよ。居場所を見つけるために、今日より明日幸せになるために、生きてる人がいてもいいじゃない」
ハンスにというより、自分に言い聞かせるようにフィオーネは言った。
理由があったとはいえ母には放っておかれ、叔母とふたりきりで、叔母もフィオーネも魔女なのに大した力もなくへっぽこで、それでも希望を持って生きてきた。
薬を作って、それを売って、いつしか必要とされるようになって、世界の隅っこに引っかかるように居場所を見つけて生きてきた。
魔女だからといって、嫌う人もいた。石を投げられることもあった。でも、世界のすべてを憎むことはなかった。
きっとフィオーネだけではなく、みんなそうだ。
「偉そうに御託並べやがって! それでほかの馬鹿は救えたかもしれないが、俺はそんな言葉じゃ心は動かないんだよ!」
「痛いっ」
逆上したハンスは、つかんでいたフィオーネの手をねじりあげた。引っ張り上げられる格好になって、彼に言葉は通じないとようやく悟る。
(ここは、たぶん遠くじゃないはず。魔術で飛ばされたわけじゃなさそうだし。……もし、周りから見えなくされてるだけなら……)
何とかここから脱出しなければと、フィオーネは頭をひねった。そして、イチかバチかで叫んでみる。
「流れ星!」
その声に応えるように、医務室のドアからフィオーネのほうきが飛び出してきた。それで、場所の認識ができた。フィオーネはハンスを蹴っ飛ばし、ほうきをつかんで走りだす。
「くそ! 待て!」
「待つのはあなたよ!」
一歩二歩三歩と、ほうきに引っ張られるようにフィオーネが大股で医務室に逃げ込んだのと、追って来ようとするハンスが誰かに捕まったのは、ほとんど同時だった。
安全圏から振り返り、フィオーネはホッとする。ぐんにゃりと歪んだ世界は消え去り、いつもの廊下でベルギウスとアンヌがハンスを取り押さえていた。
「絶望するなら、ひとりで勝手にしてなさい!」
そう言うと、アンヌは手に持っていた箱を開き、ハンスを吸い込ませてしまった。怒りのにじむ絶叫が聞こえたけれど、蓋を閉めればそれもパタリと聞こえなくなった。
「遅くなってすまなかった。というより、ハンスを捕まえるために君を餌にして、悪かった」
目の前で起きたことに呆然としているフィオーネに、ベルギウスは頭を下げた。
「そういうことだったんですね……いや、ダリウスが起きたらすぐに呼びに来いっていうのが引っかかってはいたんです。それって、ダリウスと私を分断しておくためだったんですね」
「そうだ。ハンスの狙いが君なのかノイバートなのか断定できなくてな。八割方、君だとは思っていたが」
医務室の中を振り返ると、中庭に面した窓の向こうからエミールとグリシャたちが手を振っていた。残り二割の可能性だったダリウスには、彼らが護衛でついていたというわけらしい。
「みんなで私が知らない間に、そういう相談してたんだ……。アンヌ先生、その箱は何ですか? 地獄にでもつながってるんですか?」
いろいろと聞きたいことはあったけれど、もう片付いたことだしと聞くのをやめた。でも、ハンスの行く先だけは気になる。
「これはね、箱庭。現実で心がボロボロになった人の治療用に作られたもので、その人が望んだ世界で生き直すことができる道具なの。ハンスが本当に絶望や悪意に満ちた世界を望むのなら、もう救いようがないと思うわ。でも、彼がこの箱庭の中で人並みの幸せを歩めたのなら、まだ更正の余地はあるはずよ。……甘い措置でごめんなさい」
アンヌの言葉に、フィオーネは首を振った。アンヌにとってハンスはダリウス同様、救えなかった生徒なのだ。そのことを悔いているのなら、気の済むようにするべきだと思う。
それにフィオーネも、ハンスが希望を見出し立ち直るなら、そっちのほうがいいと思っている。理解できないし、どうしようもないやつだ。でも、だからといって生きていてはいけないとまでは思わない。もし箱庭で生き直してもだめなら、そのときはそのときだ。
「じゃあ、ダリウスが起きてるかもしれないので、もう戻ります」
「ああ。また夜にでも」
疲れた顔のふたりの頭を下げ、フィオーネは医務室に戻った。
時刻はまだ昼過ぎだ。朝起きてすぐの出来事だったのに、まるで一日以上前のことに思える。ハンスに捕まっていたのなんて、時間にすればほんの少しの間だ。それなのに、うんと疲れた。
本当なら、やってくる生徒も少ない、のんびりとした週末のはずだったのに。
「ダリウス、起きた?」
溜息をついて椅子の腰を下ろすと、ダリウスが薄目を開けた。
「ちょっと騒がしかった気がしたけど、何かあったの?」
「うん……ちょっといろいろ。でも、もう大丈夫だよ」
むっくりと起き上がったダリウスは、同じく目覚めたカイザァを抱きしめた。その平和そのものの顔を見て、フィオーネはハンスのことは黙っておこうと決めた。
ダリウスにとって、ハンスは避けられない話題だ。それはきっと、ハンスにとっても。それなら、いずれ話さなければならない日が来るだろう。だから、その日までは先延ばしにしてもいいかなとフィオーネは考えた。
「あのさ。今日、本当は話したいことがあって医務室に来たんだよね」
「そ、そうだったね」
しばらくふたりしてのんびりとして黙っていると、唐突にダリウスが口を開いた。その改まった物言いに、フィオーネも身構える。
フィオーネも、彼に言いたいことがある。今回のことのお礼と、エミールに話したダリウスへの思いだ。
もしかしたらダリウスの話というのも同じなのだろうかと考えると、どうしても緊張してしまう。
「えっと、試験が終わっただろ? それで、これから休暇に入るんだけど」
「うん」
「フィオと一緒に行きたいところがあるんだけどさ……」
ダリウスも緊張しているようで、なかなか本題に入らない。だからフィオーネは何度も相槌を打ちながら、彼の言葉の続きを待った。