医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ
第六話 悩める者たちの朝
べルギウスに淹れてもらったコーヒーをかたわらに、フィオーネは薬草をきざんでいた。
何日か前から、朝の貴重なゆったりできる時間を、こうしてコーヒーを飲みながら薬を作って過ごすようになっていた。
狂騒の魔術学院でも、朝早くはわりと平和だとべルギウスが教えてくれたのだ。
「私、叔母に“楽々ポイポイ”な仕事だって聞かされて、この医務室に来たんですよ」
フィオーネは、近くでカイザァを撫でているべルギウスに話しかけた。
「それはまた、すごい理由だな」
「というのも、叔母の店で働いてたときな毎日毎日大量の薬を作って大変だったので、その言葉がすごく魅力的に聞こえたんです。まぁ、その大量の薬のほとんどがヘンデルさんからの注文だったんですけど」
「つまり、それは……」
察しのいいべルギウスは、フィオーネの嘆きに気がついたらしい。
「そうです! つまり、私が作っていた薬はこの医務室で消費されるもので、ということは叔母の店を離れようが、私が大量の薬を作らなくちゃいけないってことに変わりはなかったんです! 場所が叔母の店から医務室に変わっただけなんですよ!」
フィオーネがそんなふうに叫んだものだから、朝のまどろみのなかにいたカイザァがびくっとはね起きた。
「そうは言っても、どんな仕事であれ、大変ではあるからな」
べルギウスがなだめるように言うと、フィオーネは深々と溜息をついた。
「わかってるんです。叔母にも手紙で『楽々ポイポイとは一体何なんですか?』って尋ねたら、『お金をもらうことで楽ができると思うな』って返事が来ました。……まぁ、私もそう思いますよ」
フィオーネも別に、労働を舐めているわけではない。だから、医務室《ここ》での業務の大変さに今更文句を言うつもりはないのだ。
けれど、クララからの手紙の内容に、何とも言えない怒りを覚えていた。
「叔母がですね、手紙の最後に『追伸 彼氏ができました。少し年下の、可愛い薬師くんです。なので、フィオの帰ってくる場所はありません』なんて言ってきたんですよ! 何か、腹立つなぁって」
「おぉ……」
怒りのままにザクッザクッと薬草に包丁を振り下ろすフィオーネの姿に、べルギウスは震えた。フィオーネが怒っているのは叔母に彼氏ができたことに対してなのか、帰ってくる場所はもうないということなのか。気になったけれど、べルギウスは聞くことができない。
「はぁ……猫はいいなぁ。可愛い。実に癒される……へくしっ」
べルギウスは、殺伐としたフィオーネから目をそらし、ぬくぬくとしたカイザァを撫でてうっとりした。
朝から彼が医務室にいるのは、このカイザァが目当てだった。
くしゃみをし、目を潤ませても、毎朝カイザァを撫でに来るのだ。
手ぶらで来るのはあれだと思っているのか、フィオーネにはコーヒーを、カイザァには乾燥させた小魚を持って来てくれる。だからフィオーネも面倒がらずに迎え入れているのだ。
「教師をしていると忙しくて猫と触れ合うことなどできないと思っていたが、リッツェルさんのおかげでそれが叶った。……はぁ、かわいいっくしっ」
「先生も、大変ですね」
目をウルウルさせながら猫を撫でる男の姿というのは、何とも言えない哀愁がある。毎朝それを見ていると、フィオーネはべルギウスがとても可哀想になってきた。
魔術学院に来て約一ヶ月。
フィオーネにも、様々なことがわかってきた。
まだ年齢が若いため雑用が多く、その上彼自身が元から熱心な性質のため何かと忙しいこと。そして、若いせいで生徒たちに親しみは持たれているけれど、威厳がまだなく舐められがちなこと。このべルギウスに関して言えば、なかなかの苦労人であるとわかった。
「まだ生徒との接し方が、いまいちわからなくてな」
「はぁ、そうなんですか」
愚痴や相談は医務室ではなく、隣の相談室へとフィオーネは思わなくもない。でも、べルギウスがどうにもアンヌのことが苦手だと知っているから、そんなことは言えなかった。
「べルギウス先生は一生懸命ですから、それが生徒にも伝われば、いずれ人気者になれますよ。特に女子には。ほら、年頃の女子って少し年上の男性に憧れたりしますし」
クララの店でおじいちゃんやおばあちゃんの愚痴を聞いていたのと同じ感覚で、フィオーネは適当に返事をする。フィオーネの受け答えの適当さは、筋金入りだ。
そのせいか、おじいちゃんおばあちゃんたちはいつも、きちんと相槌を打ってもらったような気がして帰っていくのだ。
べルギウスも一瞬、フィオーネのその筋金入りの適当さに騙されそうになった。けれど、すぐに気づいて考え込む。
「いや……私はどちらかと言えば、男子から好かれたい」
「え……」
今度は、フィオーネが考え込む番だった。
(どちらかといえば、男子から好かれたい……男子から……男子から?)
心の中で、べルギウスの言葉を反芻する。何かまずいことを聞いた気がしたけれど、あまりのことに思考が追いつかない。
「え? つまり、べルギウス先生は……!?」
思考が追いつくと、つい大きな声が出てしまった。
「どうした、リッツェルさん? ……って、いや、さっきのはそういう意味じゃないぞ!」
思わずにんまりとしているフィオーネを見て、べルギウスはとんでもない誤解をされていると気がついた。
「男子に好かれたいとは、決してそういう意味ではなくてだな。いつも男子生徒に囲まれて、休憩時間には一緒に遊んだりするような教師になりたいということだ。恋愛対象の話ではない」
「何だ……そういうことですか」
必死の弁解を聞いて、急にフィオーネの興味は冷めた。またきざみかけの薬草に意識を戻してしまった。
それでも、話のとっかかりができたべルギウスは、気にせず話し続ける。
「いわゆる熱血教師というものに憧れてるんだ。生徒たちを熱く導けるような、そんな距離に……だが、難しいな」
「はぁ……」
べルギウスの言葉に、フィオーネは自分が学校に通っていたときのことを思い出していた。フィオーネも十二歳まで、読み書きや計算やこの国の歴史といったものを学びに、学校へ通っていたのだ。
「別に、熱血教師っていいものじゃないと思いますけど。暑苦しいのって、苦手な子は苦手ですから」
フィオーネの学校にも、ベルギウスが言うような熱血教師というものはいた。でも、どちらかというとフィオーネはそういった教師は好きではなかった。やたら声が大きく、元気の良さだけを美徳と思っているような、はっきりいって他人の心の繊細さなど理解しないような人間が多い印象だったから。デリカシーに欠けるというやつだ。
「別に、熱血だけが生徒を救うわけじゃないですし。それに先生は、今も十分熱心ですよ。生徒たちのこと、見守りたいっていうのはわかりますし」
校舎を歩き回るようになってからフィオーネは知ったけれど、教員寮とこの医務室は離れている。それなのにベルギウスがあの日の目からビーム事件にかけつけることができたのは、休みにも関わらず彼が校内を巡回していたからだとフィオーネは気がついた。
休みのときでも、生徒の安全をいつでも守れるように――そう思って他の誰もしていない巡回をできるベルギウスは、静かでも十分熱意のある教師だとフィオーネは思っている。
「私は私でいいということか……ありがとう」
しばらく考えてから、ベルギウスはそう小さく呟いた。
「いや、お礼とか……まぁ、熱血もほどほどならいいと思いますし」
気がつけば、柄にもなく熱心に受け答えをしてしまっていて、フィオーネは急に恥ずかしくなった。
なにもかも面倒くさいはずなのに……そういうことにしておきたいのに、つい長々と話してしまった。
「はぁ……薬作るの面倒くさい」
熱くなってしまった気持ちを静めるために、フィオーネはとりあえずそんなことを言ってみた。
「朝から面倒くさいはなしにしなさい。また、怒涛の一日が始まるんだから」
脱力するフィオーネに、べルギウスは苦笑する。べルギウスもこの二週間で、フィオーネが「面倒くさい」を連呼しつつ仕事に手を抜かないことは知っているのだ。
「昼休みまでに薬を作り終えないと……」
「そうだな。怪我をした子たちが押し寄せるのは、どうしても休み時間だからな」
これからの授業のことよりも、その先の休み時間のことを思って、ふたりは同時に溜息をついた。
生徒の怪我のことを気にしていればいいフィオーネと違い、べルギウスの心配事は多岐にわたる。
怪我をするようなことを未然に防ぐのもべルギウスたち教師の仕事だから、フィオーネ以上に気が休まらないのだ。
「では、そろそろ私は授業の準備をしに行ってくる。お互い、今日も一日頑張ろう」
「はい。ほどほどに」
まるで戦場に向かうかのような凛々しいべルギウスの姿をを、フィオーネは軽く手を上げて見送った。
「なになに、どうしたの?」
べルギウスを見送ってから少しして。それまですやすやと朝の二度寝を楽しんでいたカイザァがあわてたように起き上がり、窓のほうへと歩いていった。そして、外へ出たいというように窓枠をカリカリと爪でひっかき始める。
「お外行きたいの? じゃあ、これからは窓を開けておいてあげるね……って、おい」
窓を開けたフィオーネは、思わず年頃の乙女にはあるまじき声を出してしまった。けれど、それも無理はない。
なぜなら、窓を開けてすぐそこに、いて欲しくない人物の姿を見つけてしまったのだから。
「何してるの? ノイバート君」
うずくまっているダリウスに、フィオーネは冷ややかな視線を向けた。そして、窓枠から同じようにダリウスを見下ろしているカイザァの背中を撫でてやる。
カイザァは「誰か隠れてたら教えてね」というフィオーネのお願いを、きちんと覚えていたのだ。
「……フィオが、べルギウス先生と仲良くしてるの、見てた」
ダリウスはまるで小さな子供みたいに、すねたように答える。それを聞いて、フィオーネは疲れた溜息をつく。呆れた気持ちが強く、怖いとか腹が立つといった感情はあまりわかなかった。
「仲良くって……別に、べルギウス先生はカイザァに会いに来てるだけよ」
「それでも、いろいろ話してた。俺も、フィオといろいろ話したい」
ビー玉で覗くなと言ったから、こうして医務室に張りついているのだろうか。そんなふうに考えると、フィオーネは不思議な気持ちになった。
こんなふうに誰かに関心を向けられるのは初めてのことで、フィオーネはすごく戸惑っているのだ。
「……夕方とか夜なら、話できるかも」
「え?」
「だから、忙しい時間は無理だけど、暇な時間なら来ていいよって言ってるの」
すねていたダリウスは、フィオーネの言っていたことの意味がすぐには理解できなかった。けれど、何を言われたのかわかると、パッと顔を輝かせる。
「いいの? やった! わかった! 放課後すぐ来るね!」
「うん。だから、ちゃんと授業には出るのよ」
ストーカーしてる暇があるならという言葉を、フィオーネは何とか飲み込んだ。そんなことは知らないダリウスは、ウキウキとした様子で立ち上がった。
「大丈夫。俺、七年生だからそんなに授業ないんだ」
そう言って、ダリウスは颯爽と去っていった。
「……留年したってこと?」
ここウーストリベ魔術学院は、六年制だ。
ダリウスが残した謎は、しばらくフィオーネをもやもやさせた。
何日か前から、朝の貴重なゆったりできる時間を、こうしてコーヒーを飲みながら薬を作って過ごすようになっていた。
狂騒の魔術学院でも、朝早くはわりと平和だとべルギウスが教えてくれたのだ。
「私、叔母に“楽々ポイポイ”な仕事だって聞かされて、この医務室に来たんですよ」
フィオーネは、近くでカイザァを撫でているべルギウスに話しかけた。
「それはまた、すごい理由だな」
「というのも、叔母の店で働いてたときな毎日毎日大量の薬を作って大変だったので、その言葉がすごく魅力的に聞こえたんです。まぁ、その大量の薬のほとんどがヘンデルさんからの注文だったんですけど」
「つまり、それは……」
察しのいいべルギウスは、フィオーネの嘆きに気がついたらしい。
「そうです! つまり、私が作っていた薬はこの医務室で消費されるもので、ということは叔母の店を離れようが、私が大量の薬を作らなくちゃいけないってことに変わりはなかったんです! 場所が叔母の店から医務室に変わっただけなんですよ!」
フィオーネがそんなふうに叫んだものだから、朝のまどろみのなかにいたカイザァがびくっとはね起きた。
「そうは言っても、どんな仕事であれ、大変ではあるからな」
べルギウスがなだめるように言うと、フィオーネは深々と溜息をついた。
「わかってるんです。叔母にも手紙で『楽々ポイポイとは一体何なんですか?』って尋ねたら、『お金をもらうことで楽ができると思うな』って返事が来ました。……まぁ、私もそう思いますよ」
フィオーネも別に、労働を舐めているわけではない。だから、医務室《ここ》での業務の大変さに今更文句を言うつもりはないのだ。
けれど、クララからの手紙の内容に、何とも言えない怒りを覚えていた。
「叔母がですね、手紙の最後に『追伸 彼氏ができました。少し年下の、可愛い薬師くんです。なので、フィオの帰ってくる場所はありません』なんて言ってきたんですよ! 何か、腹立つなぁって」
「おぉ……」
怒りのままにザクッザクッと薬草に包丁を振り下ろすフィオーネの姿に、べルギウスは震えた。フィオーネが怒っているのは叔母に彼氏ができたことに対してなのか、帰ってくる場所はもうないということなのか。気になったけれど、べルギウスは聞くことができない。
「はぁ……猫はいいなぁ。可愛い。実に癒される……へくしっ」
べルギウスは、殺伐としたフィオーネから目をそらし、ぬくぬくとしたカイザァを撫でてうっとりした。
朝から彼が医務室にいるのは、このカイザァが目当てだった。
くしゃみをし、目を潤ませても、毎朝カイザァを撫でに来るのだ。
手ぶらで来るのはあれだと思っているのか、フィオーネにはコーヒーを、カイザァには乾燥させた小魚を持って来てくれる。だからフィオーネも面倒がらずに迎え入れているのだ。
「教師をしていると忙しくて猫と触れ合うことなどできないと思っていたが、リッツェルさんのおかげでそれが叶った。……はぁ、かわいいっくしっ」
「先生も、大変ですね」
目をウルウルさせながら猫を撫でる男の姿というのは、何とも言えない哀愁がある。毎朝それを見ていると、フィオーネはべルギウスがとても可哀想になってきた。
魔術学院に来て約一ヶ月。
フィオーネにも、様々なことがわかってきた。
まだ年齢が若いため雑用が多く、その上彼自身が元から熱心な性質のため何かと忙しいこと。そして、若いせいで生徒たちに親しみは持たれているけれど、威厳がまだなく舐められがちなこと。このべルギウスに関して言えば、なかなかの苦労人であるとわかった。
「まだ生徒との接し方が、いまいちわからなくてな」
「はぁ、そうなんですか」
愚痴や相談は医務室ではなく、隣の相談室へとフィオーネは思わなくもない。でも、べルギウスがどうにもアンヌのことが苦手だと知っているから、そんなことは言えなかった。
「べルギウス先生は一生懸命ですから、それが生徒にも伝われば、いずれ人気者になれますよ。特に女子には。ほら、年頃の女子って少し年上の男性に憧れたりしますし」
クララの店でおじいちゃんやおばあちゃんの愚痴を聞いていたのと同じ感覚で、フィオーネは適当に返事をする。フィオーネの受け答えの適当さは、筋金入りだ。
そのせいか、おじいちゃんおばあちゃんたちはいつも、きちんと相槌を打ってもらったような気がして帰っていくのだ。
べルギウスも一瞬、フィオーネのその筋金入りの適当さに騙されそうになった。けれど、すぐに気づいて考え込む。
「いや……私はどちらかと言えば、男子から好かれたい」
「え……」
今度は、フィオーネが考え込む番だった。
(どちらかといえば、男子から好かれたい……男子から……男子から?)
心の中で、べルギウスの言葉を反芻する。何かまずいことを聞いた気がしたけれど、あまりのことに思考が追いつかない。
「え? つまり、べルギウス先生は……!?」
思考が追いつくと、つい大きな声が出てしまった。
「どうした、リッツェルさん? ……って、いや、さっきのはそういう意味じゃないぞ!」
思わずにんまりとしているフィオーネを見て、べルギウスはとんでもない誤解をされていると気がついた。
「男子に好かれたいとは、決してそういう意味ではなくてだな。いつも男子生徒に囲まれて、休憩時間には一緒に遊んだりするような教師になりたいということだ。恋愛対象の話ではない」
「何だ……そういうことですか」
必死の弁解を聞いて、急にフィオーネの興味は冷めた。またきざみかけの薬草に意識を戻してしまった。
それでも、話のとっかかりができたべルギウスは、気にせず話し続ける。
「いわゆる熱血教師というものに憧れてるんだ。生徒たちを熱く導けるような、そんな距離に……だが、難しいな」
「はぁ……」
べルギウスの言葉に、フィオーネは自分が学校に通っていたときのことを思い出していた。フィオーネも十二歳まで、読み書きや計算やこの国の歴史といったものを学びに、学校へ通っていたのだ。
「別に、熱血教師っていいものじゃないと思いますけど。暑苦しいのって、苦手な子は苦手ですから」
フィオーネの学校にも、ベルギウスが言うような熱血教師というものはいた。でも、どちらかというとフィオーネはそういった教師は好きではなかった。やたら声が大きく、元気の良さだけを美徳と思っているような、はっきりいって他人の心の繊細さなど理解しないような人間が多い印象だったから。デリカシーに欠けるというやつだ。
「別に、熱血だけが生徒を救うわけじゃないですし。それに先生は、今も十分熱心ですよ。生徒たちのこと、見守りたいっていうのはわかりますし」
校舎を歩き回るようになってからフィオーネは知ったけれど、教員寮とこの医務室は離れている。それなのにベルギウスがあの日の目からビーム事件にかけつけることができたのは、休みにも関わらず彼が校内を巡回していたからだとフィオーネは気がついた。
休みのときでも、生徒の安全をいつでも守れるように――そう思って他の誰もしていない巡回をできるベルギウスは、静かでも十分熱意のある教師だとフィオーネは思っている。
「私は私でいいということか……ありがとう」
しばらく考えてから、ベルギウスはそう小さく呟いた。
「いや、お礼とか……まぁ、熱血もほどほどならいいと思いますし」
気がつけば、柄にもなく熱心に受け答えをしてしまっていて、フィオーネは急に恥ずかしくなった。
なにもかも面倒くさいはずなのに……そういうことにしておきたいのに、つい長々と話してしまった。
「はぁ……薬作るの面倒くさい」
熱くなってしまった気持ちを静めるために、フィオーネはとりあえずそんなことを言ってみた。
「朝から面倒くさいはなしにしなさい。また、怒涛の一日が始まるんだから」
脱力するフィオーネに、べルギウスは苦笑する。べルギウスもこの二週間で、フィオーネが「面倒くさい」を連呼しつつ仕事に手を抜かないことは知っているのだ。
「昼休みまでに薬を作り終えないと……」
「そうだな。怪我をした子たちが押し寄せるのは、どうしても休み時間だからな」
これからの授業のことよりも、その先の休み時間のことを思って、ふたりは同時に溜息をついた。
生徒の怪我のことを気にしていればいいフィオーネと違い、べルギウスの心配事は多岐にわたる。
怪我をするようなことを未然に防ぐのもべルギウスたち教師の仕事だから、フィオーネ以上に気が休まらないのだ。
「では、そろそろ私は授業の準備をしに行ってくる。お互い、今日も一日頑張ろう」
「はい。ほどほどに」
まるで戦場に向かうかのような凛々しいべルギウスの姿をを、フィオーネは軽く手を上げて見送った。
「なになに、どうしたの?」
べルギウスを見送ってから少しして。それまですやすやと朝の二度寝を楽しんでいたカイザァがあわてたように起き上がり、窓のほうへと歩いていった。そして、外へ出たいというように窓枠をカリカリと爪でひっかき始める。
「お外行きたいの? じゃあ、これからは窓を開けておいてあげるね……って、おい」
窓を開けたフィオーネは、思わず年頃の乙女にはあるまじき声を出してしまった。けれど、それも無理はない。
なぜなら、窓を開けてすぐそこに、いて欲しくない人物の姿を見つけてしまったのだから。
「何してるの? ノイバート君」
うずくまっているダリウスに、フィオーネは冷ややかな視線を向けた。そして、窓枠から同じようにダリウスを見下ろしているカイザァの背中を撫でてやる。
カイザァは「誰か隠れてたら教えてね」というフィオーネのお願いを、きちんと覚えていたのだ。
「……フィオが、べルギウス先生と仲良くしてるの、見てた」
ダリウスはまるで小さな子供みたいに、すねたように答える。それを聞いて、フィオーネは疲れた溜息をつく。呆れた気持ちが強く、怖いとか腹が立つといった感情はあまりわかなかった。
「仲良くって……別に、べルギウス先生はカイザァに会いに来てるだけよ」
「それでも、いろいろ話してた。俺も、フィオといろいろ話したい」
ビー玉で覗くなと言ったから、こうして医務室に張りついているのだろうか。そんなふうに考えると、フィオーネは不思議な気持ちになった。
こんなふうに誰かに関心を向けられるのは初めてのことで、フィオーネはすごく戸惑っているのだ。
「……夕方とか夜なら、話できるかも」
「え?」
「だから、忙しい時間は無理だけど、暇な時間なら来ていいよって言ってるの」
すねていたダリウスは、フィオーネの言っていたことの意味がすぐには理解できなかった。けれど、何を言われたのかわかると、パッと顔を輝かせる。
「いいの? やった! わかった! 放課後すぐ来るね!」
「うん。だから、ちゃんと授業には出るのよ」
ストーカーしてる暇があるならという言葉を、フィオーネは何とか飲み込んだ。そんなことは知らないダリウスは、ウキウキとした様子で立ち上がった。
「大丈夫。俺、七年生だからそんなに授業ないんだ」
そう言って、ダリウスは颯爽と去っていった。
「……留年したってこと?」
ここウーストリベ魔術学院は、六年制だ。
ダリウスが残した謎は、しばらくフィオーネをもやもやさせた。