医務室の魔女と魔術学院狂騒ディズ
第九話 心ほどく夕暮れ

「はい、どうぞ。……それで、どうしてすねてるの?」
 椅子に座ったダリウスにお茶を差し出し、フィオーネは尋ねた。
 そのカップを受け取り、ダリウスはすねた口の形のまま、ふぅーふぅーとお茶を冷ます。
「……フィオが、エミールのこと、名前で呼んだ」
「何だ、そんなこと……」
 ダリウスはしばらく黙って、お茶をすすっていた。そしてようやく口を開いたかと思えば、言い出したのはそんなささいなことだった。
「そんなことって言うけど、俺にとっては重要なことだよ」
「だって、苗字のほうを知らなかったんだもん」
「ギュンターだよ。エミール・ギュンター」
「じゃあ、今度からギュンター君って呼ぶから」
「そういうことじゃないよ!」
 改善案を提示したはずなのに、ダリウスはますます機嫌を悪くした。頬をふくらませ、今にも小さな子供のように全身でジタバタと抗議を始めそうな様子だ。
 それを見て、フィオーネは面倒くさくなって今度は溜息すら出なかった。
「……俺のことも、ダリウスって名前で呼んで」
「ダリウス君」
「“君”はいらない。呼び捨てがいい」
「じゃあ、ダリウス。これでいい?」
「もー、何でそんなに面倒くさそうなの……?」
 願いが聞き入れられ名前で呼ばれたのに、ダリウスは不満そうだ。
 そんなふうに不満そうにされたって、フィオーネはさらに面倒くさくなるだけなのに。
「フィオはさ、結構熱心ていうか、世話焼きだよね。でも、それをどっかでだめだって思ってるのか、『面倒くさい』って言って、立ち止まってる気がする。……本当はさ、面倒くさいって言ってる何割かはポーズで、本心じゃないんでしょ?」
「え……」
 すねているダリウスを無視してお茶を飲んでいたフィオーネだったけれど、唐突にそんなことを言われてお茶をむせそうになった。
「熱心だとか世話焼きだなんて……そんなふうに思われてるのは、何か心外なんだけど」
「何で?」
「何でって、力《ちから》六分目で生きていたいって、そう思ってるから」
「だから、それも何で?」
「…………」
 ダリウスの真剣な様子に、フィオーネは思わず言葉に詰まった。適当な言葉ではぐらかそうと思ったけれど、まっすぐな視線は、それを許してくれそうになかった。
(どうして、そんなふうに踏み込んでこようとするの……?)
 そんなふうに思ったのが伝わったのか、ダリウスはフィオーネをジッと見つめた。
「好きだから。フィオのことが好きだから、もっと知りたいんだ」
 そんなふうに言われ、体を貫きそうなほど強い視線を向けられて、フィオーネの胸はドキリとした。
 これまでこんなふうに誰かに見つめられたことはあっただろうかと人との関わりを思い出そうとしても、どれもこれも曖昧だ。
 それはフィオーネが意図して選んできたことではあったけれど、誰とも深く交わった体験がないというのは、こうして自覚すると寂しいものがあった。
「……私、長生きしたいの。だから、頑張りすぎたくないなって」
 しばらく考えて、フィオーネは自分の心をそう説明した。言葉にしてみると何だか間が抜けて聞こえる。それでも、本当のことなのだから仕方がない。
「頑張りすぎても、簡単に死なないと思うけど」
 ダリウスは、少し困惑した様子で言った。フィオーネがふざけているわけではないとわかっても、そこに込められている想いをうまく汲み取れなかったのだ。
「ううん。人間は、頑張りすぎると死んじゃうんだよ。……私のお母さん、頑張って働きすぎて死んじゃったもん」
「え……」
 フィオーネの悲しみを感じ取り、足元にカイザァが寄ってきた。フィオーネはカイザァを抱き上げ、その日向の匂いのする毛並に顔をそっとうずめた。
「いつも仕事であちこち飛び回ってるような人だったの。魔女で、薬を作る力と治癒の魔法が使えるから、お医者さんがいないような村に行っては、怪我や病気の人を治してあげてたのよ。それで最期は流行り病の蔓延した村に行って村人たちを治したあと、あっけなくその病にかかっちゃって……」
 語りながら、フィオーネは母のことを思い出していた。
 物心ついたときから、いつだって母はフィオーネのそばにいなかった。母にとっては娘のフィオーネのそばにいるより、持っている力を弱い人のために使うことのほうが大事だと思っているようだった。
「いつもそばにいなかったし、死ぬときすら私のそばじゃなくて遠くにいた。私、そんなの嫌だなって……頑張りすぎて周りが、何が大事なのか見えなくなるのなんて、嫌だなって。だから、いつも余力を残して生きていきたいの」
「そうだったんだね……」
 これは今まで、誰にも語ったことがない話だった。語りたくもなかったし、語る必要もないとないと思っていた。けれどそれは、こうして口にするともう止められなかった。
「カイザァもね、私と同じなの。子猫のときに母猫が死んじゃって……町の人たちが餌をあげようとしてたから無茶なんてしなくてよかったのに、人間のことが信じられなくて、やせ細って、それで走り回って食べられるものを探してたから、馬車にはねられて死んじゃったんだよ。……それで私はカイザァたち子猫の兄弟を拾って、育ててくれる人を探して、手元に残ったこの子は私が育てることにしたの」
 親を亡くした同士であるカイザァを、フィオーネはギュッと抱きしめた。親同然のフィオーネを、カイザァも慈しむように小さな舌で舐める。
 そのか弱く寄る辺ないひとりと一匹を、痛みをこらえるような表情でダリウスは見ていた。
 何か言ってやりたくても、適切な言葉が思い浮かばない。
「ここでの仕事も、“楽々ポイポイ”だと思って引き受けたんだけどなぁ。まぁ、私の要領が悪いだけで、慣れればどうってことないのかもね」
 ダリウスの視線を感じて、重くなった空気をどうにかしようとフィオーネは笑って見せた。
「要領が悪いとか、そんなんじゃないんだよ。フィオは頑張り屋の良い子なだけ。でも、頑張りすぎは心配だから、そのときは俺が無理やりにでも休ませるよ。……フィオが、頑張りすぎて死んじゃわないようにする」
 いつの間にか近くまでやってきていたダリウスが、ポンポンとフィオーネの頭を撫でる。その手から伝わってくる優しさに、フィオーネには不覚にもうるっとしてしまい、あわてて顔を伏せた。


 フィオーネの頭を撫でながら、ダリウスはフィオーネの抱えるものについて少しずつ理解し始めていた。“六分目くらいの力で生きていきたい”というのは、忙しく生きて死んでいった母への、寂しさや悲しみといった割り切れない感情が理由だったのだろうかと。
「ここでの仕事を引き受けたこと、後悔してる?」
  少しだけ怖い気持ちで、ダリウスは尋ねた。もしフィオーネが「後悔している」と言ったら、きっと寂しいし傷つくだろうに。
  でも、フィオーネは首を横に振った。
「それはない。大変な仕事でも、叔母さんの元から離れて働ける良い機会だったから。だって私の叔母さん、お母さんが亡くなってからずっと私のお守りしてくれてたんだもん。まだ若いのに。だから、そろそろ結婚してもらわないとなーって思ってる」
  そう言って、フィオーネはようやく顔を上げて笑った。それなのに、ダリウスの胸はキュッと苦しくなる。なぜなら、その笑顔すらフィオーネのものではなく、誰かのためのものだから。
「フィオは、良い子だね。でも、もっと自分の幸せを考えて、もっと誰かに甘えてみてもいいと思う」
「あ、甘える……? うーん、難しいなぁ……」
  首をひねりながらも、フィオーネの頬は少し赤かった。それを見て、ダリウスは「いい調子」と心の中で小さく跳ねる。
  ダリウスは、フィオーネに好かれたかった。ダリウスがフィオーネに出会って救われたように、今度はダリウスがフィオーネの救いになりたいのだ。
  フィオーネは、ダリウスをダリウスとしてそのまま扱ってくれた人だった。容姿のことで他の人と違う扱いはしなかったし、最初はむしろ嫌がっているような、どうでもいいような扱いをした。それなのに、単純に親切だった。
  「目が悪くなっちゃう」と言って長い前髪に触れてくれたとき、フィオーネはダリウスの顔を見ても少し驚いただけで、平然としていた。それが、ダリウスはすごく嬉しかったのだ。
「俺が、フィオの甘えられる場所になれたらいいんだけどな」
  もうひと押し、とダリウスはためらいながらも思いきってそう口にした。焦っちゃダメだとわかっていながらも、好きだと思う気持ちは加速する。
「えっ……これは……!」
 もっと距離を詰めたいと、グッと顔を近づけて目を覗き込んだとき、ダリウスの頭の中に映像が流れ込んできた。
 それは映像というより、誰かの思念。声や景色や思いや、強く印象に残っているもの。
 まだ能力の制御が未熟なせいか、不意にこうして思念を受信してしまうことがダリウスにはあった。それを防ぐために目を長い髪で隠していたのだけれど、今は髪留めでくくっていたからだ。
「ダリウス、どうかした?」
 目を閉じ、突然黙り込んでしまったダリウスに、フィオーネはこわごわと声をかけた。その声に現実に引き戻され、ダリウスはフィオーネを見つめる。
「……フィオのお母さん、理由があって、旅して回ってたんだよ」
「え?」
 ダリウスが受け取ったのは、フィオの中に残っていた母の思念だった。
 娘を大切に思う気持ちと、離れて過ごさねばならない辛さ。自分に架せられた使命のこと。その先にある、娘や一族の幸せ。
「フィオの一族は、魔女で、何らかの咎か呪いを受けていたんだ。フィオのお母さんはそれを、人助けをすることで薄めていっていたんだよ。フィオや、これからの一族の誰も、その咎を背負わなくてもいいように。その咎がある限り、決して幸せにはなれないし、関わる人を不幸にしてしまうから」
 ダリウスは、読み取ったものを懸命に言葉にしていった。母がフィオーネに向けていた思いの残滓から読み取るため、それは鮮明ではない。
 だから、その咎か呪いがどういった経緯でフィオーネの一族に付きまとうようになったのかまではわからない。
 けれどそれのせいで、フィオーネの母が彼女の父に当たる男性と共に生きられなかったのだということはわかった。
「だから、お父さんがいないのね……お母さん、全部背負って行ったから、早くに死んじゃったのか……」
 フィオーネは、ダリウスが迷って言葉にできなかった部分まで、しっかりと理解した。理解して、それから少し泣いた。
「ごめん……聞きたくなかった? 見えちゃって……でも、黙ってたほうがよかった?」
 静かに涙を流すフィオーネの姿に、ダリウスは不安になって尋ねた。けれどフィオーネは即座に、首を横に振る。
「そんなことない。知ることができて、よかった。……ありがとう」
 それは晴れやかな笑顔で、嘘偽りはないと確信できた。
 これまでずっと近づきたくて、触れたくて仕方がなかったフィオーネの“本当”が、そこにはあった。
「何だろ……ダリウスがすねるから、空いた時間にただ話そうって言ってただけなのに、いきなりいっぱい踏み込まれちゃった」
 泣いてしまった照れ隠しなのか、フィオーネはそう言って唇をとがらせていた。でもそこにこれまでの突き放すような壁はなくて、それがダリウスを嬉しくさせる。
「フィオのこと知れて、よかった。これからもっと、知りたいし知って欲しい」
 ダリウスは思いきって、そう言ってみた。本当はまた「面倒くさい」と言われるかもしれないと思って、少し怖かったけれど。
 でもフィオーネは、ダリウスの言葉にこくんとうなずいた。
 笑顔ではなかったけれど、面倒くさそうでもなかった。
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