桐島藍子の記憶探訪 Act2.夏
「到着しました、ヴェネツィアです!」
声高らかに両手を掲げ、天を仰いで胸いっぱいに異国の空気を吸い込みながら、桐島さんが言い放つ。
倣ってスーハーと繰り返す葵も置いて、僕はただ、冷静にその風景を眺めた。
行き交う人々、肌に触れる空気の温度、日差しの強さ、どれをとっても日本とは明らかに異なる、遠く離れた手の届かないと思っていた場所に――今、こうして足をつけている。
不思議だ。
ただただ、不思議だ。
眠っていた時間を抜くと、わずか二時間と少しでここに辿り着けるとは。
「桐島さん…」
「はい、何でしょう?」
「何と言うか……感謝しかありません。大好きです」
「あらあら。それはヴェネツィアの街並みに対する感想でしょうか?」
「え…!? あ、いや、それはその……」
「ふふ。冗談ですよ」
と笑う顔は、いつもの悪戯顔。
と、僕と隣で未だ空気を吸って吐いてを繰り返している葵の手を同時に取ると、
「行きましょう。ヴァポレットに乗り遅れてしまいますよ」
「え、あ、はい…!」
サンタルチア駅広場を抜けた先すぐのところにある、水上バス”ヴァポレット”の乗り場を目指し、ぐんぐん手を引いて歩く桐島さん。
一番はしゃいでいるのは、一体どこの誰やら。
隣で一緒になって手を引かれる葵と目が合うと、互いに苦笑い。
すると、やや呆れて溜息を吐く僕らの手を離し、そこでストップと伝えると自分だけ十歩分くらい進んで、
「せっかくですので、ヴェネツィア旅行初の写真を撮りましょう!」
振り返り様に見せた笑顔の無邪気さは子どものそれだった。
そこでまた、顔を見合わせて笑う僕と葵。
幾つも年上なのに、どうしてこうも楽しめるのか。
「取材旅行じゃなかったんですか、桐島さん?」
「それはそうですけれど、楽しめる時には楽しまないと。損じゃありませんか?」
高説ごもっともなのだけれど、ついさっきというかたった今、ヴァポレットに乗り遅れるからと引っ張っていったのは何処の誰だったろうか。
楽しいなら、いがみ合っているより幾分も気が楽なことに変わりはないけれど。
桐島さんは、近くを通った中年の男性をつかまえて「Excuse me.」と声を掛けた。
「Could you take our picture with this camera?」
「Yes,please. Should I take you together?」
「You're right! Thank you for taking time for us.」
「I don't mind. then I take it.」
凄い。
本当に会話をしている。
えっと――うん、速すぎてよく聞き取れなかったな。
「葵」
隣で何のことはない様子で会話をする二人を見ている葵に声を掛ける。
仕方ないなぁと溜息を吐きながらも、丁寧に翻訳をして今の会話内容を説明してくれた。
「えっと……順にいく。『すいません、このカメラで私たちの写真を撮ってくれませんか?』『あぁ。貸してごらん。あんたらを撮ればいいんだね?』『はい。お時間をいただいてありがとうございます』『構わんよ。それじゃあ、撮るよ』って感じかな」
「な、なるほど……」
話せる方も話せる方だが、会話に参加していない立場でそれを聞き取れる方も聞き取れる方だ。
流石は全国一位。といっても、そのレベルならこのくらい、実力の何割も占めてはいないのだろうけれど。
男性に簡単な使い方を説明し終えると、パタパタと駆けてくる桐島さんを中央に、右に僕、左に葵と並ぶ。単純なピースのポーズを取って静止、男性の掛け声でシャッターが切られる。
一枚、二枚、三枚と撮ったところで、桐島さんが「サンキュー」と列を離れた。
フィーリングで理解した限りだと、ありがとう、何の何のといった内容の会話が聞こえてくる。
男性の撮った写真を確認し、これで良しと「うんうん」と頷くと、二人ともが片手を上げて歩き別れる。話しが終わったらしい。
と、男性が振り返って「The lady of the camera?」カメラのお嬢さん、と呼び止める。
何でしょうと振り返った桐島さんに、
「We're speak Italian in this town. I am an exception. Have a nice trip.」
とだけ伝えると、再び前を向いて歩き始めた。
隣では桐島さんが「おーまいが」と、今まで英語を話していた人とは思えないカタコトで顔を押さえている。
「えっと…」
「『この街ではイタリア語で話すんだよ。僕は特別だ。良い旅を』だね」
「あー」
そういえば。
会話が成り立っていたから疑問を抱かなかったけれど、ヴェネツィアはイタリア国内にある都市だ。自然、ここに居る人たちはイタリア語を話す筈。
軽くコミュニケーションの取り方でも見ていれば、桐島さんならあっさりと話せるようになっていたものを。
なるほど、念のためにと買っておいた”イタリア旅行入門”なる本が役に立つらしい。
しかし、いつまでもしょげているのも桐島さんらしくなかった。
存外あっさりと立ち直ると、前向きに「これからです、これから!」と頬を叩いて、
「とりあえずヴァポレットです。早いところ、ホテルに入っておきましょう」
そんなことを言う桐島さんに、またまた僕らは苦笑い。
今度は見られていたようで、頬を膨らませて怒られた。
——と、どうして僕らが遠い異国の地、ヴェネツィアにいるのかと言うと。
時は少し遡る。
声高らかに両手を掲げ、天を仰いで胸いっぱいに異国の空気を吸い込みながら、桐島さんが言い放つ。
倣ってスーハーと繰り返す葵も置いて、僕はただ、冷静にその風景を眺めた。
行き交う人々、肌に触れる空気の温度、日差しの強さ、どれをとっても日本とは明らかに異なる、遠く離れた手の届かないと思っていた場所に――今、こうして足をつけている。
不思議だ。
ただただ、不思議だ。
眠っていた時間を抜くと、わずか二時間と少しでここに辿り着けるとは。
「桐島さん…」
「はい、何でしょう?」
「何と言うか……感謝しかありません。大好きです」
「あらあら。それはヴェネツィアの街並みに対する感想でしょうか?」
「え…!? あ、いや、それはその……」
「ふふ。冗談ですよ」
と笑う顔は、いつもの悪戯顔。
と、僕と隣で未だ空気を吸って吐いてを繰り返している葵の手を同時に取ると、
「行きましょう。ヴァポレットに乗り遅れてしまいますよ」
「え、あ、はい…!」
サンタルチア駅広場を抜けた先すぐのところにある、水上バス”ヴァポレット”の乗り場を目指し、ぐんぐん手を引いて歩く桐島さん。
一番はしゃいでいるのは、一体どこの誰やら。
隣で一緒になって手を引かれる葵と目が合うと、互いに苦笑い。
すると、やや呆れて溜息を吐く僕らの手を離し、そこでストップと伝えると自分だけ十歩分くらい進んで、
「せっかくですので、ヴェネツィア旅行初の写真を撮りましょう!」
振り返り様に見せた笑顔の無邪気さは子どものそれだった。
そこでまた、顔を見合わせて笑う僕と葵。
幾つも年上なのに、どうしてこうも楽しめるのか。
「取材旅行じゃなかったんですか、桐島さん?」
「それはそうですけれど、楽しめる時には楽しまないと。損じゃありませんか?」
高説ごもっともなのだけれど、ついさっきというかたった今、ヴァポレットに乗り遅れるからと引っ張っていったのは何処の誰だったろうか。
楽しいなら、いがみ合っているより幾分も気が楽なことに変わりはないけれど。
桐島さんは、近くを通った中年の男性をつかまえて「Excuse me.」と声を掛けた。
「Could you take our picture with this camera?」
「Yes,please. Should I take you together?」
「You're right! Thank you for taking time for us.」
「I don't mind. then I take it.」
凄い。
本当に会話をしている。
えっと――うん、速すぎてよく聞き取れなかったな。
「葵」
隣で何のことはない様子で会話をする二人を見ている葵に声を掛ける。
仕方ないなぁと溜息を吐きながらも、丁寧に翻訳をして今の会話内容を説明してくれた。
「えっと……順にいく。『すいません、このカメラで私たちの写真を撮ってくれませんか?』『あぁ。貸してごらん。あんたらを撮ればいいんだね?』『はい。お時間をいただいてありがとうございます』『構わんよ。それじゃあ、撮るよ』って感じかな」
「な、なるほど……」
話せる方も話せる方だが、会話に参加していない立場でそれを聞き取れる方も聞き取れる方だ。
流石は全国一位。といっても、そのレベルならこのくらい、実力の何割も占めてはいないのだろうけれど。
男性に簡単な使い方を説明し終えると、パタパタと駆けてくる桐島さんを中央に、右に僕、左に葵と並ぶ。単純なピースのポーズを取って静止、男性の掛け声でシャッターが切られる。
一枚、二枚、三枚と撮ったところで、桐島さんが「サンキュー」と列を離れた。
フィーリングで理解した限りだと、ありがとう、何の何のといった内容の会話が聞こえてくる。
男性の撮った写真を確認し、これで良しと「うんうん」と頷くと、二人ともが片手を上げて歩き別れる。話しが終わったらしい。
と、男性が振り返って「The lady of the camera?」カメラのお嬢さん、と呼び止める。
何でしょうと振り返った桐島さんに、
「We're speak Italian in this town. I am an exception. Have a nice trip.」
とだけ伝えると、再び前を向いて歩き始めた。
隣では桐島さんが「おーまいが」と、今まで英語を話していた人とは思えないカタコトで顔を押さえている。
「えっと…」
「『この街ではイタリア語で話すんだよ。僕は特別だ。良い旅を』だね」
「あー」
そういえば。
会話が成り立っていたから疑問を抱かなかったけれど、ヴェネツィアはイタリア国内にある都市だ。自然、ここに居る人たちはイタリア語を話す筈。
軽くコミュニケーションの取り方でも見ていれば、桐島さんならあっさりと話せるようになっていたものを。
なるほど、念のためにと買っておいた”イタリア旅行入門”なる本が役に立つらしい。
しかし、いつまでもしょげているのも桐島さんらしくなかった。
存外あっさりと立ち直ると、前向きに「これからです、これから!」と頬を叩いて、
「とりあえずヴァポレットです。早いところ、ホテルに入っておきましょう」
そんなことを言う桐島さんに、またまた僕らは苦笑い。
今度は見られていたようで、頬を膨らませて怒られた。
——と、どうして僕らが遠い異国の地、ヴェネツィアにいるのかと言うと。
時は少し遡る。
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