桐島藍子の記憶探訪 Act2.夏
「それは僕が借りる予定だった」
「私がこれから藍子さんに許可を貰いに行くの」
と、僕と葵が口論を繰り広げるここは、記憶堂入り口右手にある、海外観光地物ばかりを集めた部屋のとある棚の前だ。
今日の葵は、いつもは二つのヘアゴムが一つ見つからず、また新しい一つハーフアップスタイルでの登場。
色々と漁っている内に見つけた”ヴェネツィアの歴史”なる本に手を伸ばした時、遊びに来ていた葵の手と偶然重なり――今、どちらがそれを桐島さんのところへ持っていくかで言い合っていた。
大学より少し遅れて夏休みに入った高校生たる葵も、海外旅行が決まってからというもの足繁くここに通い、本を見ては目を輝かせている。
私もここでバイトしようかな。藍子さん雇ってくれないかな。と呟くこともある始末。
桐島さんの採用条件で言えば、葵はまず間違いなく雇ってもらえることだろう。だろうが、いくら心があろうと、マイペース極まりない葵に、人と接するに足る行動が取れるかどうかと問われれば、それはまた別問題である気がしてならない。
出立を数日後に控えた今日、桐島さんは荷物を纏めに上の自室に籠りっきり。
たまにドンと音がするのは、重い物でも運んでいるのだろう。
であれば、男として手伝いに行くのが道理なのだろうが――何だろう。今退けば、何かに負けそうな予感がある。
「藍子さん、困ってるんじゃない?」
「生憎僕は田舎者なもんで。慣れない機械にでも触って誤作動を起こしたら――って、寧ろ気を遣っている方だよ。それより、葵が行った方が早いと思うな。猫みたいに俊敏に動けそうじゃないか」
「イジワル言うまことは嫌い。こんな都会で木登り出来る人なんて、田舎者のまことくらい」
「言ってくれるじゃないか。なら君は都会っ子らしく――っと、電話だ」
「わわっ…!」
ふとポケットの中でスマホが鳴ったのに気付き、両端を掴みあっていた本を離すと、葵は引っ張る力に負けて後方へ。尻もちをついて静止した。
向けられるのは、それはそれは猫のように鋭い眼光。
片手を顔の前に持ってきて軽く謝って、僕はスマホに向き直った。
表示されていたのは”高宮遥”の文字。
通話ボタンをタップして出ると、
『おー神前、また葵のやつが邪魔してるみたいだな』
邪魔というか、ここは僕の家ではないんですけれど。
ともあれ、桐島さんにも迷惑そうな素振りは一つも見受けられないので、全然そんなことはと勝手に否定しておいた。
要件を聞けば、今度の海外出立に関することだった。
荷物は既に全てまとめてあって、もうあとは飛行機に乗り込むだけなのだと言う。
ちゃんと片付けてから遊びに来ているとは感心。そう褒めてみるや、洋服意外の面倒事は全部、遥さんに押し付けてここに通っているのだとか。
ちょっと見直した空気、返して。
やれることは自分でやるという条件で親から許しを得たという話だったが――
「葵?」
「し、知らない……」
「僕の目を見てみな?」
「し……知りません…」
あくまでしらばっくれる葵。
通話向こうでは、遥さんが『仲良いな』と笑っている。
そうやって笑って流せるところ、遥さんって凄くいい人だと思う。
まったく、兄も大変だ。
準備はアレだが、身の回りのことは家事含め一通り何でも出来るから、と遥さんは最後にそれだけ伝えた。
身の回りのこと、ねえ。
どこか抜けている葵のことだから、何を忘れただの、何を置いて来ただの言い出しそうだ。
『あぁあと、葵は英語大丈夫だから心配すんな』
「分かりました。英語はだいじょう――え?」
英語が大丈夫とは、話せるということだが――葵が?
にわかには信じがたい。と抗議したいところだが、それに対する回答として遥さんが追加で一言。
『英語だけは全国模試一位だった筈だぞ』
「いち……え、一位…!?」
『数学に物理に化学とかは苦手そのもの、ケツから数えて近いくらいだったが、文系の国語と英語に関しちゃ、それぞれ五位と一位だ。だから心配すんな』
「心配って……」
もはや、別のところにあった。
いや、寧ろ増えた。
桐島さんも一通りの日常会話レベルには話せるということだから、僕は唯一の役に立たない人だということで……複雑もいいところだ。
それを伝えたかったのだと言ってから通話を切った遥さん。
ツー、ツーという無機質な音が、まるで今の空っぽな心境を表しているかのように響いた。
葵が、英語を話せる。
その響きだけで既に異様なのだが、普段あれだけまったりゆっくりとした喋りなだけあって、流暢でかっこいいイメージの英語とは程遠い。
一体、どの程度のレベル――
「葵」
「なに?」
「えっと……What are you looking forward to ?」
「兄貴に聞いたのね。面倒だなぁ。うーん…」
成績が良いイコール好きだというわけではないのか、言葉の通り溜息を吐いて立ち上がる。
少し考える様子を見せた後、コホンと一つ咳払いを置いて、
「A thing I'm looking forward to take a gondola ride. Cuz it can look at cityscape of Venice slowly. Hmm…It's to be interested rather than wanting to do it.」
「お、おーまいが…」
何ということでしょう。
僕は一文程度の返答を要求したつもりだったのだが、葵はそれ以上の要素を付け加えて返してきた。
何がやりたいですか、という問いに対し『ゴンドラに乗りたい。ヴェネツィアの街並みをゆっくりと眺めることが出来るから。えっと…やりたいことって言うよりは、興味があることかな』といったところか。
辛うじて聞き取れたのは、洋楽をよく聴くから早口に慣れているだけであって、僕が話せるかと問われれば土台無理な話だった。
「試す真似してごめん。それは葵に渡すよ」
「え、やだよ。なんか釈然としないし。兄貴に謝らせる」
「程々にね」
未来で浮かべている遥さんの顔を想像すると、とてもではないがいたたまれない。
「私がこれから藍子さんに許可を貰いに行くの」
と、僕と葵が口論を繰り広げるここは、記憶堂入り口右手にある、海外観光地物ばかりを集めた部屋のとある棚の前だ。
今日の葵は、いつもは二つのヘアゴムが一つ見つからず、また新しい一つハーフアップスタイルでの登場。
色々と漁っている内に見つけた”ヴェネツィアの歴史”なる本に手を伸ばした時、遊びに来ていた葵の手と偶然重なり――今、どちらがそれを桐島さんのところへ持っていくかで言い合っていた。
大学より少し遅れて夏休みに入った高校生たる葵も、海外旅行が決まってからというもの足繁くここに通い、本を見ては目を輝かせている。
私もここでバイトしようかな。藍子さん雇ってくれないかな。と呟くこともある始末。
桐島さんの採用条件で言えば、葵はまず間違いなく雇ってもらえることだろう。だろうが、いくら心があろうと、マイペース極まりない葵に、人と接するに足る行動が取れるかどうかと問われれば、それはまた別問題である気がしてならない。
出立を数日後に控えた今日、桐島さんは荷物を纏めに上の自室に籠りっきり。
たまにドンと音がするのは、重い物でも運んでいるのだろう。
であれば、男として手伝いに行くのが道理なのだろうが――何だろう。今退けば、何かに負けそうな予感がある。
「藍子さん、困ってるんじゃない?」
「生憎僕は田舎者なもんで。慣れない機械にでも触って誤作動を起こしたら――って、寧ろ気を遣っている方だよ。それより、葵が行った方が早いと思うな。猫みたいに俊敏に動けそうじゃないか」
「イジワル言うまことは嫌い。こんな都会で木登り出来る人なんて、田舎者のまことくらい」
「言ってくれるじゃないか。なら君は都会っ子らしく――っと、電話だ」
「わわっ…!」
ふとポケットの中でスマホが鳴ったのに気付き、両端を掴みあっていた本を離すと、葵は引っ張る力に負けて後方へ。尻もちをついて静止した。
向けられるのは、それはそれは猫のように鋭い眼光。
片手を顔の前に持ってきて軽く謝って、僕はスマホに向き直った。
表示されていたのは”高宮遥”の文字。
通話ボタンをタップして出ると、
『おー神前、また葵のやつが邪魔してるみたいだな』
邪魔というか、ここは僕の家ではないんですけれど。
ともあれ、桐島さんにも迷惑そうな素振りは一つも見受けられないので、全然そんなことはと勝手に否定しておいた。
要件を聞けば、今度の海外出立に関することだった。
荷物は既に全てまとめてあって、もうあとは飛行機に乗り込むだけなのだと言う。
ちゃんと片付けてから遊びに来ているとは感心。そう褒めてみるや、洋服意外の面倒事は全部、遥さんに押し付けてここに通っているのだとか。
ちょっと見直した空気、返して。
やれることは自分でやるという条件で親から許しを得たという話だったが――
「葵?」
「し、知らない……」
「僕の目を見てみな?」
「し……知りません…」
あくまでしらばっくれる葵。
通話向こうでは、遥さんが『仲良いな』と笑っている。
そうやって笑って流せるところ、遥さんって凄くいい人だと思う。
まったく、兄も大変だ。
準備はアレだが、身の回りのことは家事含め一通り何でも出来るから、と遥さんは最後にそれだけ伝えた。
身の回りのこと、ねえ。
どこか抜けている葵のことだから、何を忘れただの、何を置いて来ただの言い出しそうだ。
『あぁあと、葵は英語大丈夫だから心配すんな』
「分かりました。英語はだいじょう――え?」
英語が大丈夫とは、話せるということだが――葵が?
にわかには信じがたい。と抗議したいところだが、それに対する回答として遥さんが追加で一言。
『英語だけは全国模試一位だった筈だぞ』
「いち……え、一位…!?」
『数学に物理に化学とかは苦手そのもの、ケツから数えて近いくらいだったが、文系の国語と英語に関しちゃ、それぞれ五位と一位だ。だから心配すんな』
「心配って……」
もはや、別のところにあった。
いや、寧ろ増えた。
桐島さんも一通りの日常会話レベルには話せるということだから、僕は唯一の役に立たない人だということで……複雑もいいところだ。
それを伝えたかったのだと言ってから通話を切った遥さん。
ツー、ツーという無機質な音が、まるで今の空っぽな心境を表しているかのように響いた。
葵が、英語を話せる。
その響きだけで既に異様なのだが、普段あれだけまったりゆっくりとした喋りなだけあって、流暢でかっこいいイメージの英語とは程遠い。
一体、どの程度のレベル――
「葵」
「なに?」
「えっと……What are you looking forward to ?」
「兄貴に聞いたのね。面倒だなぁ。うーん…」
成績が良いイコール好きだというわけではないのか、言葉の通り溜息を吐いて立ち上がる。
少し考える様子を見せた後、コホンと一つ咳払いを置いて、
「A thing I'm looking forward to take a gondola ride. Cuz it can look at cityscape of Venice slowly. Hmm…It's to be interested rather than wanting to do it.」
「お、おーまいが…」
何ということでしょう。
僕は一文程度の返答を要求したつもりだったのだが、葵はそれ以上の要素を付け加えて返してきた。
何がやりたいですか、という問いに対し『ゴンドラに乗りたい。ヴェネツィアの街並みをゆっくりと眺めることが出来るから。えっと…やりたいことって言うよりは、興味があることかな』といったところか。
辛うじて聞き取れたのは、洋楽をよく聴くから早口に慣れているだけであって、僕が話せるかと問われれば土台無理な話だった。
「試す真似してごめん。それは葵に渡すよ」
「え、やだよ。なんか釈然としないし。兄貴に謝らせる」
「程々にね」
未来で浮かべている遥さんの顔を想像すると、とてもではないがいたたまれない。