果たせなかった約束~アイドルHinataの恋愛事情【4の番外編】~
07 休日の予定。
盟と付き合いはじめて、もうすぐ一年半になる、11月下旬。
その日も、いつ帰ってくるか分からない盟のために作ったシチューを先に食べ終えて、自分が使った食器の後片付けをしていた。
元々、スケジュールを細かく教えてもらってるわけじゃないけど、当日になって予定が変わるなんてことはいつものことだから、出来立てが美味しい料理は盟があらかじめ家にいるときにしか作らない。
最近は年末が近いこともあって、普段より忙しいみたいだから、今夜も遅くなるのかな。
洗い終えた食器を拭きながらぼんやり考えていると、ガチャッと玄関が開く音がした。
「あ、盟……おかえりっ」
わたしが声をかけると、盟は暗い玄関で壁に手を付きながら靴を脱いで、少しふらついた足取りでダイニングへと入ってきた。
いつものように言葉を交わして、今夜は仕事ではなく、この間結婚が発表された、タレント兼女優の水谷麻梨絵さんの『結婚パーティーの二次会』だったことを聞かされた。
あ、だから見慣れないスーツ着てて、お酒も飲んだから足もとがふらついてるんだ。
残りの食器を拭き終えて振り返ると、ジャケットを脱いだ盟はクッションを抱え込んで床に座り込んでる。
ややうつむいてダイニングの床を見つめてる盟の顔は、ものすごく暗い。
そういえば、春に動物園に行った帰りも、こんな顔してた。
考えてるのかな、あの人……廉くんのお母さんのこと。
盟はあの後、あの人のことについて、一言も触れなかった。
わたしの方からも、聞けなかった。
なんだか、聞いちゃいけないような気がして。
たぶんきっと、盟はあの人のことが好きだったんだと思う。
もしかしたら、今でも……かもしれない。
何があったかは分からないけど、ずっと引きずってる。
そんな盟に抱かれながら、無意味と分かってるのについ口走ってしまう。
『わたしは……盟のことだけ、好き――――』
何度も零れ落ちて、でも……その度に盟の心の壁に跳ね返される。
どうしたら、その心の壁を壊せるんだろう。
幼馴染の『さーちゃん』がわたしだと知ったら、少しはその壁も薄くなる?
それとも……わたしには壊せないの……?
床で眠ってしまいそうになってる盟を無理やり起こして、お風呂に連れて行ったのはいいけど、その後1時間半経っても盟はお風呂から出てこない。
まだお酒も抜けきってないみたいだったし、最近仕事がハードで疲れてるだろうから、湯船に浸かったまま眠ってるのかも。
心配になって、様子を見ようとそっとお風呂のドアを開けると……湯船に浸かったままの盟は眠っていなかった。
さっき暗い顔をしてダイニングの床を見つめていたのとは正反対に、お風呂の天井を見上げながら微笑んでいる。
「……盟?」
声をかけると、盟は口元を緩ませたまま、お風呂場の入口に立っているわたしのほうへ視線を向けた。
「ん、何?」
「いつまでお風呂に入ってるのかなって……思って」
「……そんなに時間経った?」
「うん。もう1時間半になるけど」
「え? マジで? ……うわ、お湯……ぬるっ!!」
盟は慌てて給湯器の追いだきボタンを押して、浴槽の中でがたがたと震えだした。
お湯がぬるくなってることにも気付かなかったなんて……やっぱり相当疲れてたのかな。
「な、なんだよ。『アホだなー』とか思っただろ?」
「ううん、そうじゃなくて……。お風呂で少しは疲れが取れたのかな、って思って」
「……え、なんで?」
「だって、盟……さっき暗ぁい顔してたのに、いま……笑ってる。もしかして、うたた寝して、いい夢でも見てたの?」
「…………夢?」
盟は視線を上にあげて少し考えた後、今度は湯船の水面を見つめながら、
「夢……みたいなもんだな。途中、この世の終わりかと思うくらいの悪夢だったけど。……ラストで救われたよ」
どんな夢――? と聞こうとして、盟の珍しく穏やかな表情にハッとした。
盟のこの表情……最近どこかで見たことがある。
「……紗弥香、いつまでそこで突っ立ってんの? 寒いから閉めてほしいんだけど」
「え? あ、ごめん……」
「あ、なんだったら一緒に入る? その方がガス代も浮くだろ?」
言いながら、盟は自分が浸かっている湯船を指差した。
「盟が温まったら、すぐに交代してくれればいいと思うんだけど」
「えー? いいじゃん。来いって」
「……ん、分かった」
結局、盟の誘いを断りきれず、わたしは一度浴室のドアを閉めて、服を脱ぐために脱衣所に立った。
……さっきの、盟の表情。
盟があんな『穏やかな』表情をするなんて、家でも仕事でも滅多にない。
それなのに、見覚えがある。
……ううん、違う。
普段滅多に見ない表情だからこそ、ハッキリと印象に残ってるんだ。
それを見たのは確か、一週間くらい前の生放送の歌番組、『ウタステ』。
もうすぐ発売になるHinataの新曲の、テレビ初披露。
Hinataが司会者と話をしているときは、映画の撮影の合間に東京に戻って番組に出演している高橋くんの話題がほとんどだったんだけど。
別のアーティストの番のときに、後の方の席に座っていた盟の表情が、ほんの一瞬だけ、さっきと同じ、穏やかな表情になってた。
画面の左端にいた盟の視線の先にいたのは。
画面の右端にいるAndanteのなーこ。
まるで、『目と目で会話をしている』ような感じで視線を合わせて……だけど、盟はすぐに視線を逸らして、隣にいた高橋くんに何か話しかけてた。
Andanteはいま老若男女問わず大人気の女性デュオ。
そのAndanteのなーこは、ちょっと悪ぶってる部分も持っていながら、いつも笑顔を絶やさない。
20代前半の女の子はみんな彼女のメイクやファッションをマネしてる。
わたしだって、もう少し若かったらマネしてみたいと思うくらい、好きな女性タレントのうちの一人……だった。
もちろん、盟が『女性タレントと視線を合わせて笑ってる』ところなんて、何度も見てきた。
それが仕事なんだし、その度にいちいちヤキモチ妬いてたら、キリがない。
だけど、このときの盟の表情は、いつもの笑顔とは違ってて……。
いまお風呂で見た盟は、そのときと同じ表情。
そういえば……さっき、今夜は『水谷麻梨絵さんの結婚パーティーの二次会』って言ってた。
水谷麻梨絵さんって……確か、Andanteのもう一人、SHIOの方と仲がいいってよくテレビで言ってる。
と、いうことは、二次会にAndanteのSHIOと一緒に、なーこが来ててもおかしくない。
もしかして――――。
わたしは、脱ぎかけていた服を着なおして脱衣所を出て、部屋の隅に置いてあったテレビ番組ガイド雑誌を開いた。
バラエティー番組が好きな盟が、唯一毎週見ているドラマの出演者の欄には……やっぱり。
『なーこ』の文字がある。
今年の1月から3月に放送されていた別のドラマも毎回見てて、それにもなーこが出てたはず。
ドロドロの不倫劇だったにも関わらず、盟の口元がなぜかゆるんでいたのを不思議に思った記憶がある。
『何だったら、『どっちかに他に好きな人ができるまで』って条件付きでもいいよ――――』
一年半前に盟から提示された条件。
盟がわたしのことを『彼女扱い』してくれてるのも、結局は形だけ。
それでも構わないと思って付き合い続けてきたけど。
人気絶頂のとびきりかわいい年下のアイドルと、ごくごく平凡な29歳OL。
敵うわけ、ない――――。
翌日、わたしは盟の家から普段通り出勤した。
盟のところに泊まっていくことが日常的になってしまっているから、着替えやメイク道具も、実家に置いてあるよりも盟の部屋に置いてある物の方が多いくらい。
いままで二時間近くかけて通勤していたのが、ものの十数分で会社に着いてしまうのも、ついつい盟の部屋に足が向かってしまう理由の一つでもある……かもしれない。
電話の対応、書類の整理、お茶くみ。いつもと同じ仕事をしながら、わたしはついぼんやりと考え事をしてしまっていた。
盟は、今日から新曲のプロモーションが本格的に始まるから、しばらく忙しいんだって、昨日言ってた。
高橋くんの映画の撮影の関係で、普段より相当きついスケジュールになるらしい。
『いつもの半分くらいしか、稼働できる日数がないんだよ。でも、テレビでの宣伝はできるだけしたいじゃん。だからもう、ほとんど分刻みでスケジュール詰め込んじゃってんの。なのに、高橋のやつ、何を血迷ったかオフ取りやがって……』
なんて、寝る前ずっとぼやいてた。
それだけ、明日のオフは貴重なものなんだと思う。
その貴重なオフを、『久し振りにどっか出かけない?』と、盟は誘ってくれたのだ。
……わたし、考えすぎてたのかもしれない。
盟がAndanteのなーこのことを好きなんじゃないか――――なんて。
だって、なーこは誰からも好かれる『アイドル』なんだから、『Hinataのエロ王子』なんてよく樋口くんから言われている盟が、鼻の下伸ばして見ちゃうことくらい、普通にあってもおかしくない。
それに……。
盟が、『あの人』のことを引きずっているのだとしても。
盟が、『あのコ』のことを気になっているのだとしても。
いまの盟の『彼女』がわたしであることは、間違いないんだから。
「なぁに暗い顔してんのよっ」
気づくと、わたしは給湯室にいた。
声をかけてきたのは……やっぱり、紘子。
「……別に、暗い顔なんてしてないよ」
「いや、してた。昔ここで『Hinataの中川盟』のブロマイドを眺めてたときよりも、暗ぁい顔」
「……その時だって、暗い顔なんてしてないし」
「何かあった? 木下さんと」
紘子は、いかにも興味津々な感じでわたしに聞いた。
当然のことなんだけど、紘子にも『Hinataの中川盟』であることは言ってない。
付き合って一年半経った今でも、わたしの彼氏は『木下悟』のまま。
「……何もないよ。ただ、彼が明日休みだって言ってたけど、わたしは仕事だから会えないな、って思ってただけ」
「なぁんだ。そんなの、紗弥香も休んじゃえばいいじゃん」
「そういう訳にもいかないでしょ?」
「ほんっと、あんたって真面目ね。ま、そういうとこ、好きだけど。――――あ、栗木課長っ!」
紘子は給湯室から顔だけ出して、ちょうど廊下を歩いていたわたしの上司、栗木課長を呼び止めた。
「……なんだ、何か用か?」
「あの、突然なんですけど、明日、安西さんにお休みあげてくださいっ」
紘子は、栗木課長に向かってガバッと頭を下げた。
「ちょっ……紘子っ?」
「ほら、安西さんって有給使ったことほとんどないじゃないですか。課長も、『たまには休め』って言ってたし、いいですよね?」
「滝口君が休み過ぎなんだと思うが。おまえの有給はとっくの昔になくなってるよな」
「私のことはいいんですよぉ。今回は、安西さんだけ。……いいですよねっ?」
紘子は意味ありげな笑みを栗木課長に向けた。
栗木課長はウッ……と一瞬顔をしかめて、
「……いま、システム部の方から『人手が欲しい』って話があって、明日までにテストデータの入力をお願いされてるんだが……それを今日中に済ませたら、明日有給取っていいぞ」
「えっ、いいんですか?」
わたしが聞くと、栗木課長は苦笑いで頷いた後、一瞬だけ紘子の方を睨みつけて、去っていった。
「……紘子、何か栗木課長の弱みでも握ってるの?」
「ん、実は不倫中」
――――ええっ!? ふっ……不倫っ!?
驚いて声も出ないわたしに、紘子はニッと笑って、
「私はこんな恋愛しかできないけどさ。真面目なあんたには、ちゃんと普通に幸せになってほしいな、と思ってるよ」
と、わたしの肩をぽんぽんっとたたいて、給湯室を出て行った。
『ちゃんと普通に幸せになってほしい』……か。
それが『結婚』を意味する言葉だとするなら、たぶんきっと無理だと思うけど。
休日を二人で一緒に過ごすというだけでも、わたしは十分に幸せだと思う。
システム部のテストデータ入力作業、か。
あれ、毎回ものすごい量だから、明日やるはずだった分を今日中に終わらせようとすると、日付の上では『今日』でなくなってる可能性もある。
多分、盟も今夜は仕事で遅くなると思うし。
もし、早く帰ってきたとしても、昨日の残りのシチューが冷蔵庫にあるし。
うん。頑張って作業して、明日の休日は盟と二人で過ごそう。