あなたのそばにいさせて
夜10時半。
やっと電車が動き出し、私と赤木は帰ることにした。
『道はわかるよな』と、私達を放り出そうとした課長は、橙子さんにたしなめられて、渋々駅まで送ってくれている。
赤木は、マンションを出てすぐに課長の隣に並んだ。
「課長、橙子さんて、もしかして声が出しにくい、とかですか?」
「……」
課長は仏頂面で答えない。
赤木は構わずに続ける。
「だから、いなくなっても電話しないで捜しに出たんですよね。俺、あの時点ではわかんなくて。ちょっと絡んじゃってすいませんでした」
「……別にいい」
課長は、仏頂面のまま、声だけがちょっとやわらかくなった。
声が出しにくい、か。
橙子さんは、短くしゃべって、声を出さずにジェスチャーで意思表示することが多かった。
口数が少ない、というレベルではないと思ってはいたけど、そういうことなんだ。
だから、一語一語、ゆっくりと話すんだ。
課長はそれを知っているから、橙子さんが話さなくていいような会話をしていたんだ。
喉の病気なんだろうか。
それだけにしては過保護な気もするけど、プライベートを隠しているのは、その辺に理由がありそうな気がする。
聞きたいことはいろいろあるけど、気軽に聞ける訳もなく、そのうち駅に着いた。いつも会社に行く時とは反対側だ。
「あとはわかるだろ」
課長は変わらずの仏頂面で言った。
「今日は……ありがとう」
聞き取れるギリギリの小さな声。
見ると、課長の顔はほんのり赤くなっていた。
「お前らのおかげで……橙子さんが楽しそうだったから。礼を言っとく」
赤木と私は、課長の顔を見てニマッと笑ってしまった。
課長はそれを見て、また仏頂面に戻った。
「今日のことは……会社では」
「他言無用ですね。了解っす」
私も頷いた。
ぶんぶんと首を縦に振ったら、課長がクッと笑った。
また笑われた。今日はなんだか笑われてばっかりだ。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「ういーす」
「ありがとうございました」
私達は頭を下げ、課長は踵を返して元来た道を歩いて行った。
課長を見送って、私達は駅に入った。
電車は割と混んでいたけど、満員ではなかった。
車両の真ん中あたりに立つ。
つり革につかまって、赤木は首をひねった。
「あの2人さあ……」
ぼそっと呟く。
「課長と橙子さんのこと?」
「んー……なんかさあ……なーんか、変じゃねえ?」
いきなり何を言い出すのか。
「変ってなに」
「気ぃ遣い過ぎっつーか、よそよそしいっつーか、なんか、距離があるんだよなー……恋人っぽくないっつーか」
「でも、課長は橙子さんが大好きだし、橙子さんも課長のこと好きみたいだったよ」
「お互いに思い合ってんのは、俺もわかったけどさ。なんか、通じ合ってないっつーか、どっかすれ違ってるっつーか……」
距離は、私もちょっと感じていた。
課長も橙子さんも、どこか相手に遠慮している感じがした。
「まあ、あれでうまくいってんなら、別にいいんだけどさ」
「……そうだね」
照れている2人を思い出す。
私は、あのままそっとしておきたい気持ちになっていた。
「上原さんは、なんなんだろうな」
「えっ?」
赤木は、またボソッと呟く。
「課長、橙子さんを上原さんから略奪しちゃったとか」
「ええっ⁈」
電車の中にしては大きな声を出してしまった。
ハッとして、口を押さえる。
「なくないだろ?課長と上原さんの変な緊張感とかさ。それだと説明がつく」
「あ……」
そうだろうか。それにしては、あの2人はどちらも切なそうで、1人の女性を奪い合ったようには思えなかった。
「でも、それならもっと火花散らしても良さそうだし……」
課長が、橙子さんのデザイン画を見た時に、上原さんは穏やかに声をかけていた。
「3年経ってるんだろ?もうそんな火花散る時期じゃないだろ」
「んー……でも、なんか違う気がするんだよね……なにかはわかんないけど」
「そうか?藤枝のカンは当たる時もあるからな。信用すっか」
「またバカにする〜」
「あはは、バカになんてしてねえよ」
赤木は、それ以上そのことについて話さなかった。
私は、家に帰ってからも、課長と橙子さんの様子を思い出してはにやけていた。
課長のプライベートを知ることができたのは、単純に嬉しかった。
そして、橙子さんに会えたのも、嬉しかった。
あのデザイン画を描いた人。
課長が、大切にしている人。
素敵な笑顔だった。
課長と2人、幸せでいてほしい。
自然にそう思ってしまう人だった。
また会えたらいいな、と思って、その日は眠りについた。