あなたのそばにいさせて
赤木が、上原さんが考えている隙を狙って声をかける。
「上原さんは、橙子さんとはしばらくお会いしてないっておっしゃってましたが……」
上原さんは頷いた。
「3年前から、全く」
「仕事の話はどうしてるんですか?」
「メールです。電話はもちろん駄目ですし、チャットとかSNSも試してみましたが、リアルタイムのやり取りが彼女にとってはキツかったらしくて、結局メールに落ち着いています」
「メールだけで、細かいニュアンスとか、ちゃんと伝わるんですね」
「その前に、一緒にやっていましたから。北山が亡くなる前は……」
上原さんはうつむいた。
この人も、北山さんのことで相当なダメージを受けたんだ。
さっきは笑っていたけど、今は沈痛な表情。
まだ、立ち直りきれてないのかもしれない。
「先程の、橙子さんの症状は課長しか知らないっていうのは……どういうことなんですか?」
赤木が聞くと、上原さんはちょっと考え込んだ。
赤木は続ける。
「どうして上原さんは知らないんですか?3年前から会ってないってことは、北山さんが亡くなった直後から、ですよね。橙子さんの声が出なくなったのは、それが原因ですか?」
「ちょっと赤木」
聞き過ぎじゃないかと思って止めたら、赤木はニッと笑った。
「上原さんは、聞かれたことに答えるだけだから。課長が話さないことを、上原さんから話してしまう訳じゃない」
赤木は、私から上原さんに視線を移す。
「上原さん、僕たちは3号店の担当です。3号店を無事に開店させるために、できるだけのことをしたいと思ってます。そのためにお聞きしています。お答えいただけますか?」
無茶苦茶な理由だ。でも、赤木は真剣な表情だった。
上原さんは、ため息を一つついて、笑った。
「赤木さんは、葉山建設にいた頃の元木君に似ていますね」
そうして、私にも、困ったような笑顔を向ける。
「藤枝さんは、あの頃の橙子と同じ」
「えっ?」
「思ったことが、顔にすぐ出る。橙子も、そうでした。おもしろいくらいに感情が表に出てくる。そう思っていたから、あの時も、全然気づかなくて……」
暗い表情だった。
「北山が亡くなった時、橙子は呆然としてました。話しかけると答えはしますが、それ以外は抜け殻みたいで。そのうち、葬儀やいろんな手続きや、やらなきゃいけないことが山積みになって。
北山も橙子も、両親は早くに亡くしていて、親戚もほとんどいない。代わりになる人もいなかったし、目の前のことを片付けるのが精一杯で、悲しむ暇もなかったくらいだったんです。
私も、仕事を回さないといけないし、会社の方で北山がいないとわからないこともあって、橙子のことを気にかける余裕がなかった。
そのうち、ひと通りのことが終わって、橙子は普通に仕事を再開したんです。普通に。北山が亡くなる前と同じように。
少し痩せてはいましたが、様子はいつもと変わりませんでした。変わらなさ過ぎて、こちらが拍子抜けするくらいに」
上原さんは、深くため息をついた。
「だから、安心してしまったんです。その時ちゃんと話をしたり、側にいないといけなかったのに、普通にしている橙子をそのままにしてしまった。
橙子はその時、葉山建設の仕事をしていて、納品しに行ったんです。その日、元木君から連絡が来ました。橙子がもう限界だと。しばらく自分が預かる、と」
上原さんは、自分の右手で、左手を包むように握り、しきりに指を動かしている。
その時の、悔しさやもどかしさを思い出しているんだろうと思った。
「なんの冗談かと思いました。とにかく橙子に会わせてほしいと元木君に言うと、橙子が会いたくないと言っている、と言われたんです。誰にも会いたくない、と。
そして、橙子の声が出なくなっていることを知らされました。
2日後に元木君と会って話して、橙子の様子が普通なんかじゃないことがわかりました。
眠れない。食事もできない。ぼうっとしていて、抜け殻のようだと。話しかけても、ちゃんと聞いているのかもわからない。1人では何もしないから、長時間1人で置いておけない、と。
北山を亡くした直後の橙子の姿だと思いました。橙子の時間は、そこで止まっていたんです。表面上は普通にしていたから、本当は更にひどい状態になっていたのに、気付かなかった」
上原さんは、拳をギュッと握った。
指先が、白くなるくらい、強く。
「病院に連れて行ったら、北山を亡くしたショックで一時的に鬱状態になっているんだろうと言われたそうです。入院を勧められたけど、橙子が嫌がったのでやめたと言っていました。自分の家に帰るのも嫌で、元木君の家ならいいと言っていると。
最初は、私が引き取ることにしようと思いました。北山がいなくなったら、橙子に頼りになる身内はいないし、私が1番橙子の近くにいる人間だと思っていたからです。
元木君も、橙子にそう言ったんだそうです。そうしたら、橙子が首を振ったと。そのまま、ここにいたいと言っている、と言われました」
上原さんの指先は白いまま。
手は、動かない。
「信じられなくて、とにかく橙子に会って話したいと言ったんですが、本人が拒否していて、それはできない、と言われました。
その日の夜中に、橙子からメールが来たんです。謝罪と、元木君が言っているのは本当のことであること。それから、仕事は続けたいこと。
とにかく会って話したいと返事を出しましたが、それはできないという返事が返ってきました。仕事の打ち合わせもあるから、どうしても会わないと困る、と送ったら、1日後にデザイン画を送ってきたんです。
確かに、橙子のデザインで、しかもその時の注文以上の、素晴らしい出来でした。
正直、元木君が嘘をついている可能性もあると思っていました。元木君は元々橙子に好意を持っていることは知っていましたから、彼が橙子を閉じ込めているということもあり得ると。
でも、デザイン画を見た時に、その考えはなくなりました。
橙子にとって、本当にいい環境じゃなかったら、あんなにいいデザインは出てこないと思ったんです。
そうしたら、もうそれ以上はなにも言えなくなりました」
赤木が、ニコッと笑った。
「僕も、上原さんと同じ立場だったら、課長のことを疑っていたと思います。
でも、課長と橙子さんが2人でいるところを見たら、絶対にそんなことはないってわかります。お互いに信頼し合ってて、尊重してて、いい関係だと思います」
それを聞いた上原さんの指先から、力が抜けた。
色が戻ってきて、私もちょっとホッとした。
「その後、元木君は葉山建設からここへ転職して、後はご存知の通りです。
この近くに住んでいるのは知っていますが、書類上の住所は元木君の実家になっているので、訪ねては行けません。橙子が、そう希望したと、聞いています」
「住所のことは聞いていましたが、そういうことだったんですね。課長は『事情があって』としか教えてくれなくて」
上原さんは、苦笑した。
「じゃあ、彼がここに転職した理由も、何も言ってませんか?」
「いえ、全く」
上原さんは、赤木の返事を聞いて、私にも視線を向けた。
私は、ぶんぶんと首を振る。
「私も、なにも聞いていません」
「そうですか……」
上原さんは、フッと笑った。
「元木君がここに転職したのは、橙子のためです。橙子は、1人でいると食事をしないので、なるべく家の近くで、残業はしないことを条件に転職したと聞いています。昼休みも帰って、一緒に昼食をとっているらしいです」
「昼休みも、ですか」
そうか、それで課長がどこでお昼ご飯を食べているか、誰も知らなかったんだ。
昼休みにかからないように外回りを避けていたことも、それで納得がいく。
葉山建設という大手から、中堅の船木建設へ転職したのは、場所が理由だったんだ。
葉山建設もそんなに遠くはないけど、電車は使わないといけない。徒歩圏内で探したら、ウチの社に当たったんだろう。
ヘッドハンティングされたらしいと噂が流れたくらいだ。喜んで迎えられたに違いない。
残業しなくても文句を言わせないような仕事をしているのは、よく知っている。
なにもかも、橙子さんのために。
橙子さんを支えて、守るために。
2人を見たらわかる。
課長は橙子さんのためにそこにいて、橙子さんはそれに応えようとしている。
その積み重ねが、橙子さんのあの柔らかい笑顔なのだ。
3年の年月をかけて、そこまできたのだ。
「橙子とは、仕事のやり取りはずっとしていたので、快方に向かっているのは感じていましたけど……やっと、声が出るようになったんですね」
上原さんは『よかった』と、口の中で呟いた。