あなたのそばにいさせて
「あ、来た」
小山田さんが呟いた。
部署の仕切りのガラスドアから、しなしなと入ってくる女性がいた。
総務の皆川さんだ。
この人は課長目当てで、なにかにつけてここへやって来る。
「元木課長、ちょっとよろしいでしょうか」
課長は『鉄壁の微笑み』で迎え撃つ。
「なんでしょう」
「この書類なんですが」
皆川さんは、わざわざ課長の隣に来て、寄り添うように書類を見せた。
「日付けが違うようなので、ご確認いただけないでしょうか」
課長は書類を受け取って、確認している。
「それで、あの、駅前に新しくカジュアルフレンチのお店ができたんですよ。元木さんは、フレンチはお好きですか?」
シナを作る皆川さん。無言で書類を確認している課長。
「もしよろしければ、今日ランチをご一緒に」
「確かに日付けが違いますね」
課長は皆川さんの言葉を遮った。
「黒田」
いきなり呼ばれた黒田さんは飛び上がる。
「はいっ」
「これ、日付けを間違えてるぞ」
書類を黒田さんに差し出す。
そして、皆川さんにむけて微笑んだ。
「申し訳ありませんでした。わざわざ来ていただかなくても、お電話いただければ出向かせますから。お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「あ、いえ、いいんです、このくらい」
「書類は早めに再提出させますので。ありがとうございました」
きっぱり言い切って、パソコンに向き直る。
しかし皆川さんはあきらめないらしい。
「あの元木課長、今日よろしければランチを」
課長は手を止めて、皆川さんに体を向けた。
もちろん『鉄壁の微笑み』を携えて。
「皆川さん、僕も総務部長に叱られてしまいますので、お戻りください」
課長の微笑みは眩しくて、皆川さんの目がハートになった。
そしてまだ食い下がる。
「あの、ランチを」
「お戻りください」
微笑んでいるけれど、目の前でシャッターを降ろした。
ガラガラピシャン!と音が聞こえた気がした。
「で、ではまた……失礼しました……」
さすがの皆川さんも、退散していった。
課長は、ふうっと一息ついて、パソコンに向き直った。
黒田さんが、書類を持って課長の席へ行く。
「課長、すみませんでした……」
課長は書類を確認して、黒田さんに返す。
「気を付けろよ。書類はすぐ出してこい」
そして、微笑む。
でもこの微笑みは、さっきのとはまた違う。ちょっと親しみのある、部下用の微笑みだ。
元木課長は、この『微笑み』をうまく使い分けて、仕事を円滑に進めている。
顔がいい人が微笑めば、周りもいい気分になろうというものだ。
そのおかげか、企画営業課は揉め事が少ない。
働きやすいし、課長の顔も拝めるし。
私にとっては最高の職場だった。