あなたのそばにいさせて
展望台の足元に、四阿があって。
橙子さんは、そこにいた。
遠くを、海を見ていた。
髪が、風になびいて。
ワンピースの裾が、ふわりと浮いて。
目を奪われた。
デザイン画を見ていた課長と同じ。
絵が描けるなら。写真が撮れるなら。
この光景を、収めたい。
課長は、ゆっくりと歩いて、橙子さんに近付いた。
足音を聞いた橙子さんは、振り向いて驚いていた。
やがて、課長は橙子さんの前に立ち、そっと抱きしめた。
「……良かった……心臓が、止まるかと思いました」
橙子さんは、驚いた表情のまま、課長に抱きしめられている。
「……どうして……?」
橙子さんの声は、まだ弱々しかったけど、この前の台風の日よりは、はっきりと聞こえた。
「昼の予定が無くなって。家に帰ったら、橙子さんがいなくて、メールも電話も反応なくて。どこにいるのか見当もつかなくて。
弁当がなくて、ワンピースもなかったから、近所じゃない。じゃあここしかないと思って……」
「……ごめんなさい……夕方までには、帰るつもりで……」
どうやら『いなくなった』のではないらしかった。課長の予定が変わらなければ、何事もなく今日は終わっていたらしい。
「すみません。俺の早とちりでしたね」
課長は、深いため息をひとつついて、橙子さんの顔を見た。
「橙子さん、電話は?」
「……あります」
「充電は?」
橙子さんは、課長から離れて、バッグの中のスマホを取り出した。
少しさわって、『あ……』という顔をした。やっぱり充電が切れていたらしい。
「……ごめんなさい……」
橙子さんは、そこで初めて私と上原さんの存在に気がついた。
「上原さん……ご無沙汰して、しまって、すみません」
上原さんは、笑顔で首を振った。
「久しぶり」
橙子さんは、ペコっと頭を下げた。
課長が橙子さんの横に並ぶ。
「上原さんが、車で連れて来てくれたんです」
橙子さんは、また驚いた表情で課長と上原さんを見比べた。
「……すみません、私のせいで……遥さんまで」
しゅんとしちゃっている。不謹慎だけど、可愛い。
そんな橙子さんを見て、上原さんがフッと笑った。
「弁当は食べたか?」
橙子さんが?マークを貼り付けた顔で、上原さんを見る。
「元木が作ったっていう弁当だよ」
『ああ』と言って、頷く。
そして、課長に向き直った。
「浩一さんにも、見てもらいました」
そう言って微笑む橙子さんは、凄く綺麗だった。
「……あの、台風の日。赤木さんと遥さんが家に来て……助けてもらったお礼を伝えたくて、そうしたら、声が出て……。
声が出たら、どんどん自分が変わっていくのがわかって……怖くなってしまって……。
そうしたら、元木さんが、もっとゆっくりでいいって、言ってくれたんです。無理しなくてもいいって。でも、変わっていくのは自然なことだから、怖がらなくていいって。怖かったら、止まってもいいって。
安心、しました。
いつも、そうだったって、思い出しました。
いつも、元木さんが、側にいて、守ってくれていて、安心できて……。
だから、浩一さんに、報告しなきゃって、思ったんです。
元木さんが、私のために、こんなに素敵な、お弁当を作ってくれるのって。だから、安心してね、って。大丈夫だからって……」
橙子さんは、課長をまっすぐに見つめる。
課長は、ぽかんとしている。
そんな課長を見て、橙子さんは微笑んだ。
「あの時、つい甘えてしまったけど、いいのかなって、ずっと、思っていました。あなたの家は、居心地が良くて、あなたの側は、あったかくて、安心できて……私、ずっと、そこにいたいって、思ってしまったんです……。
それだけのことがわかるのに、3年もかかってしまって、ごめんなさい」
課長は、言葉なく、首を振る。
目には、涙があふれていた。
「私も、あなたが安心できる場所を作りたい。あなたが私にしてくれたように、あなたを守りたい。私を……あなたの側に、いさせてください。これからも、ずっと」
橙子さんは、そう言って、微笑んだ。
光り輝いて見えた。
課長は、涙を流したまま、頷いた。
「俺も、あなたの側にいさせてください。あなたを守ります。これからも、ずっと」
そして、橙子さんを抱きしめた。
橙子さんは、課長に体を預けて、背中を抱いた。
幸せそうだった。
絵にも、写真にも、収めることはできない。
そう、思った。