あなたのそばにいさせて


「あそこです」
 ヒソヒソ声で、ガラス扉の向こうを指差す。
「見えますか?」
「あっいた」
 橙子さんも、ガラス扉の向こうを見て、ヒソヒソ声だ。
「見えました」
 嬉しそうな笑顔は、いたずらっ子のようだ。

 『恭平さんが働いているところを見てみたい』との、橙子さんのお願いを叶えるべく、部署の入り口のガラス扉から中をのぞいている。

 『恭平さん』に、ドキッとした。
 橙子さんが課長の名前を呼んでいる。
 それだけ、2人の距離は縮まったということだ。
 縮まったというか、元々近かったけど。

 課長は、私達には気付かずに、デスクに向かって仕事をしている。相変わらずカッコいい。
「仕事してるの、久しぶりに見ました」
 橙子さんの目がキラキラしている。
「私が知ってるのは新人の頃なので、やっぱり違いますね」
 課長の新人の頃……想像できない。
 橙子さんが、私の顔を見てクスッと笑った。
「その頃は、今の赤木さんに、似てました」
「あ、上原さんもそう言ってました」
「私もそう聞きました。お会いしたら、やっぱり似てましたよ」
「そうなんですね……あっ、てことは、赤木の何年後かは、ああなる……?」
 2人で課長を見る。

 2人いっぺんに視線を送られた課長は、何かを感じたのかこっちを見た。
 私と目が合って、次に橙子さんを見た。
 一旦目をそらして、二度見する。
 途端に、顔がブワッと赤くなった。
 そこに、黒田さんが書類を持ってきた。
 なにかしら話しているけど、課長の顔は赤いまま。
 書類を受け取って、立ち上がった。
 黒田さんが不思議そうに見ている。

「バレちゃいましたね」
 あはは、と橙子さんは笑う。その笑顔も可愛い。
 課長がガラス扉を開けた。
「……本物」
「はい、本物です」
 あっけらかんと、橙子さんは答える。
「な、な、なん……」
 課長にとって、余りの出来事だったらしい。口をパクパクさせている。
 さっきの私もこんなだったのかな。それは笑える。
「なんでここにいるんですか」
「仕事です」
「仕事って、今日はD-UKに行くって……あ」
 課長はそれを聞くと、一歩中に戻って、入口横にある社員の行動予定を見た。赤木と私の欄には『16:00〜D-UK打ち合わせ B室』と書いてあるはずだ。私が、今朝そう書いた。
 課長は確認すると、こちらに戻ってきた。
「ごめんなさい、突然来てしまって」
 ちょっとしゅんとする橙子さん。やっぱり可愛い。
「いや、いいっていうか良くないっていうか……連絡くらいくださいよ」
「だって仕事の邪魔かなって思って」
「そんなわけな……」
 課長がハッと扉の向こうを見た。
 ガラスの向こうには、興味津々でこちらを見ている社員達。
「あ……」
 課長が固まる。
 ガラスの扉が開いて、黒田さんが遠慮がちに言う。
「あのう課長、そちらの方は……?」
「あ、ああ……」
 課長は困ったように橙子さんを見た。
 橙子さんは、きょとんとしている。
 その橙子さんの顔を見て、課長は笑った。
 橙子さんの肩を抱いて、ガラス扉を開ける。
「紹介する。北山橙子さん。デザイナーで、俺の婚約者だ。以後、よろしく頼む」
 通る声で、きっぱり言い切った。
 社員達からは感嘆の声が上がった。
 橙子さんは目を見開いて課長を見ている。
 課長の顔は真っ赤だった。
 橙子さんも、ちょっと顔を赤くして、みんなに向かってペコッとお辞儀をした。
「北山橙子です。よろしくお願いします」
 拍手が起こる。
 2人共、照れながら笑顔で答えていた。

 課長は、橙子さんをB室に連れて行った。
 赤木と上原さんは、打ち合わせが完全に終わり、雑談をしていたようだ。
 みんなに橙子さんを紹介した、と聞いて驚いていた。

「もう少しで終わりますから、ここで待っててください」
「仕事、大丈夫なんです……か……」
 橙子さんがケホッと咳をする。
 課長は顔を曇らせた。
「もうしゃべっちゃ駄目ですよ。また熱が……」
 課長は橙子さんの顔を見て、おでこに手を当てる。そしてホッと息をついた。
「まだ大丈夫みたいですね」
「そのくらい自分でわかります」
 ぷっとふくれた橙子さんの声は、もうかすれている。
 まだ完全に戻った訳ではないらしい。
「そう言って、先週寝込んでたのは誰ですか。あと、しゃべっちゃ駄目だって言ったでしょう」
 課長の顔は怒っているけど、目はこの上なく優しい。
 橙子さんはまだむくれていたけど、渋々頷いた。
「じゃあ、5時に来ますから。しゃべっちゃ駄目ですよ」
 課長は、橙子さんの頭をポンと撫でて、B室を出て行った。

 甘々だ。
 私や赤木、上原さんはまるで目に入っていない。

「しゃべっちゃ駄目って言われちゃった」
 橙子さんがははっと笑う。やっぱり声がかすれている。
「駄目ですよ。言うこと聞きましょう。今あったかい飲み物をお持ちしますから」
 橙子さんに座ってもらって、給湯室で小山田さん秘蔵のハーブティーを入れていく。もちろん小山田さんの許可はもらった。

 B室に戻ると、3人で談笑していた。橙子さんは声を出さずに。
 ハーブティーは気に入ってもらえたようだった。橙子さんがにこにこしている。

『お気遣いありがとうございます。ちょっとしゃべると、すぐノドが腫れてしまうんです』

 スマホで、メモを見せてくれた。
「あ、それで熱が出るんですか?」
 橙子さんは大きく頷く。
「この人、すぐに無茶するから。元木も大変だ、目が離せなくて」
 上原さんがからかうように言う。
 橙子さんは、またぷっとふくれた。
『心配し過ぎなんです』
 メモを見て、赤木が言う。
「まあ……なんとなくわかりますけどね、課長の気持ちは。心配してる斜め上の行動されるんですよ」
 それを聞いた上原さんが苦笑する。
「赤木さんも大変ですね」
「課長ほどじゃないと思いたいです」
 2人で笑っている。

 ……なんの話だろう。よくわからない。

 首を傾げながら橙子さんを見ると、ニコッと笑って、私の頭をなでなでする。
「遥さん、可愛いですね」
「とっ橙子さん、よくわからない上に、声出てますよ!」
 うふふと笑って、まだなでなでする。気持ちいい。
 なぜか顔がほてってくるのを感じていたら、課長がドアを開けた。
「お待たせしました、って、なにしてるんですか」
 橙子さんは、私の顔を覗き込むようにしてささやいた。
「遥さん、また」
 にっこり笑って立ち上がる。
「赤木さん、頑張ってくださいね」
 赤木は、苦笑で答えた。
 私達は、上原さんと橙子さんをお送りするために、エレベーターに向かった。

「では、またご連絡致します」
「お気をつけてお帰りください」
 赤木と並んで礼をする。
 エレベーターのドアが閉まるまで、橙子さんは手を振ってくれていた。
 横には課長が寄り添うように立っている。

 なんか、すっきりしている。
 課長と橙子さんには、以前感じていた、すれ違った感じがなくなっていた。
 気持ちがきちんと通じ合ったんだ、と思った。




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