その上司、俺様につき!
(もう考えないって決めたのに……)
ドアを静かに閉めて、私は自分に喝を入れた。
「しっかりしなきゃ!」
自分のやるべきこと、やらなければいけないことがはっきり見えた今、彼への恋心は邪魔にしかならない。
早足でエレベーター前に行き、下に向かうボタンを押す。
(あれ? いつの間に……)
伸ばした右手の人差し指の爪が、少しだけ欠けていた。
私の化粧ポーチに爪やすりや爪切りなんて、ネイルケアグッズが入ってるはずもない。
(絆創膏でも貼って誤魔化そうかな)
このままでは服や書類に引っかかってしまいそうだった。
ほんの二週間前までは、休日のスケジュールをやりくりして、月末までに何とかネイルサロンとヘアサロンの予約を取ろうと考えていたのに。
(……まぁ、綺麗にしたって誰が見るわけでもないし)
桜井さんの手入れされた髪や爪に影響されたところで、私は私。
どう足掻いたって、見た目を取り繕ったって、私は彼女にはなれないのだ。
エレベーターの到着を告げる音に、目線を上げる。
定時の昼休みからは大幅にずれた時間帯、中に乗っていたのは知らない人ばかりだった。
「お疲れ様です」
簡単な挨拶を交わし、エレベーターに乗り込む。
1階のボタンがすでに押されていることを確認すると、階層ランプが徐々に下降していくのを私はぼーっと見守った。
(1階のカフェに行くのも、久しぶり……)
品揃えが多く値段も安いことから、どうしてもコンビニに頼りがちだが、たまにはささやかでも贅沢がしたい。
ドアが開くと共に、私は早足でカフェに向かう。
正面玄関の先にあるカフェは一般にも公開されていて、誰でも使うことができる。
落ち着いた雰囲気と座り心地のいいソファが好きなのだが、飲み物メインの客が多く、食事で利用する人はそれほど多くない。
店側もそれを踏まえているのか、軽食やテイクアウトはランチタイムを過ぎると、売り切れてしまうことがほとんどだった。
(簡単なものでいいから、残っていますように……!)
私は息を弾ませて、ショーケースの前に立った。
けれど、綺麗に磨かれたガラスの向こうには、サンドウィッチやドーナッツ、カップケーキが申し訳程度に並んでいるのみ。
「やっぱり遅かったか……」
せっかくカフェに来たのだから、ここでしか食べられないものを食べたかった。
ショーケース横のポスターには「春限定・いちごサンド」の文字が躍っていたけれど、当然残っているはずがない。
「いちご……」
つやつやと赤い果肉が、食欲をそそる。
(きっとすごく美味しいんだろうな……)
食べたい気持ちは募る一方だが、ないものを嘆いてもしかたがない。
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