その上司、俺様につき!
「何よ。何で謝るの?」
余計なことを言うと、さらに気を使わせてしまうことになる。
できるだけ自然に去ろうと思った。
「今日は朝が遅かったから平気。心配しないで!」
その時、ランチ帰りの社員がぞろぞろと玄関に入ってくるのが見えた。
「エレベーターが混む前に、私行くね」
それじゃあと手を振る。
飯田君はまだ何か言いたげな表情を浮かべていたが、知り合いの社員に声をかけられたようで、やっと私から視線をはずした。
5分前に戻ると約束したのに、急がないと遅刻してしまう。
できる限り小走りでエレベーターホールに向かったが、エレベーター待ちの行列がもうすでにできあがっていた。
(失敗したか……)
はあっと後悔のため息をつく。
何のためにわざわざ1階まで降りてきたのか。
私はがっくりと肩を落とした。
貴重な休み時間を、文字通り浪費してしまった。
ランチを食いっぱぐれた胃が、グーグーと抗議の声を上げる。
(面談中には鳴らないでよね!)
胃のあたりをぎゅっと押さえつつ、満員になったエレベーターを一機見送る。
もしかしたら階段の方が早いかもしれない……と考えた時、新入社員だろうか。
背後から、若い女の子の舌ったらずな声が聞こえてきた。
「え~? でもそれって本当なんですかぁ~?」
別段、聞き耳を立てようと思ったわけではないのだけれど、やけに耳に届く声だった。
そのせいもあって、図らずも会話の内容をひと言残さずすくい上げてしまう。
「らしいわよ。でもしょうがないよね~、あんなにスペック高いんだもん」
(……これはたぶん、さっきの子の先輩だな)
幾分か落ち着いた声だけれど、それでも私よりは若い印象だ。
(どこの部の人だろう? システム部かな?)
比較的、平均年齢が若い部署を思い浮かべたけれど、確証などない。
少し気になったものの、振り向いて顔を確認するまで興味はなかったので、ネットニュースでもチェックしようかと、私はスマホの液晶画面を叩いた。
「でもショックです~! 久喜さんに婚約者がいるなんて~!」
その声を聞いた途端、左手でしっかり持っていたはずのスマホが、するりと手のひらから滑り落ちた。
カツーンと固い音が響き渡り、あたりが一瞬、静寂に包まれる。
(―――え?)
声がしたあたりを振り返ると、予想通り若い女子社員が2名、驚いた顔で私を見ていた。
カラカラと足元で回転していたスマホが、ようやく止まりおとなしくなる。
「あ! 遠藤さん! ……ですよねぇ!?」
よく通る声が嬉しそうに弾んだ。その声をきっかけに、周囲に再びざわめきが戻る。
「あのう、久喜さんに婚約者がいるって噂、本当なんですかぁ?」
< 58 / 98 >

この作品をシェア

pagetop