その上司、俺様につき!
「お先に失礼します」
心の中で言い聞かせ、挨拶をして部屋を出ようとすると、急に久喜さんに呼び止められた。
「―――遠藤!」
ドキッと心臓が跳ね上がったが、そんなことはありえないとすぐに期待を打ち消す。
(……言い忘れていた用事かな?)
決別したと思ったはずの恋心なのに、いまだに意識できないところで、私の体にまとわりついているらしい。
―――でもそれも、しばらくすれば消えるだろう。
「はい、何でしょうか?」
ドアノブに手をかけたまま、久喜さんを振り返る。
彼は机に右肘をついて、手の甲に顎を乗せていた。
私が勝手に”ロダンのポーズ”とこっそり命名した、考えている時特有の久喜さんの癖だった。
「……久喜さん?」
いつもテキパキと指示を与える彼らしくない。
黙り込んだまま、顔も上げずにうつむいている。
勢いよく私を呼んだにしては、この展開はありえない。
(もしかして、具合が悪い……とか?)
心配になってしまった私は、踵を返して久喜さんの元に走り寄った。
「ど、どうかしましたか……?」
正面に立ってみても、彼が今どんな表情を浮かべているのかは確認できない。
私は中腰になり、久喜さんの顔を覗き込むようにして尋ねる。
眉間に寄ったシワが、はっきりと見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
最近は、あまり彼の顔を直視しないように仕事をしていた。
だから気づかなかったけれど、久しぶりに間近で見た久喜さんは、明らかに以前より疲れていた。
目の下にはうっすらクマができ、心なしか頬もこけてしまっている。
返事もできないほど疲労しているのかと心配になり、そっと彼の肩に手を伸ばす。
「久喜さ―――」
指先が触れるか触れないか。
寸でのところで突然、熱い感触が私の手のひらを包み込んだ。
「―――っ!」
久喜さんに伸ばした手を掴まれたのだと理解するよりも早く、彼の真剣な眼差しに射抜かれてしまった。
瞬きすら躊躇うほどの、刺さるような鋭い視線。
まるで標本に縫いとめられた蝶のような心境に陥る。
「な……なんです、か……?」
絞り出した声は自分でもわかるくらいかすれていた。
握られた手が痛い。こんなの上司と部下の距離じゃない。
(こ、この人は一体、何がしたいの……?)
「あ、あの……手を、離してください」
引き抜こうとしてもビクともしなかった。
でも、それだけの強い力で私を引きとめる割には、言葉では何も言ってくれない。
(ああダメだ、ここで泣いたって何も変わらないのに―――!)
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