その上司、俺様につき!
理性は必死にこらえようとしたけれど、体は感情にただただ素直で正直だった。
みるみると目の前の世界が歪み、下まぶたが支えきれなくなった涙を重力に沿って下に落とす。
瞬きをするたびに、幾筋もの熱い線が頬を伝った。
「すいませ……!」
空いている手で涙を拭う。
いくらなんでも私情を持ち込んで会社で泣くなんて、社会人としてありえない。
(我ながら、情緒不安定すぎる……!)
自分の不甲斐なさに絶望した。恥ずかしさに顔も赤くなる。
その時、ガタンッと大きな音がして、手のひらが熱さと痛みから一気に解放された。
思わず腕を自分の胸に引き寄せて、この場から立ち去ろうと試みる。
「―――っ!?」
けれど、こちらに近づいてくる久喜さんの姿を目が捉えた次の瞬間、全身がスーツの張りある布地に包まれていた。
遅れて鼻先に届く、彼の香水の匂い。
有無を言わさぬ勢いだった。
(まさか……!)
何がこの身に起きているのか、にわかには信じられない。
でも、彼の肩越しに見た窓ガラスに反射していていたのは、呆然とした表情で彼に抱きしめられている私の姿だった。
サブバッグがするりと腕から抜け落ちて、中に入れていた財布やスマホがカーペットの上に散らばる。
派手な音ではなかったが、ガタガタとしたその雑音が、私に口を開くきっかけを与えた。
「な、なんですか……?」
けれど身じろぎすればするほど、逃がさないとでも言うように、固く抱きしめられる。
「ちょっと、い、痛いんですけど……」
抗議の声をあげるが、まったく聞き入れてはくれなかった。
想像の範疇を超える展開に、驚きすぎて、すでに涙は瞳の奥に引っ込んでしまっていた。
(先が読めない人だとは理解していたけど)
抵抗したところで、檻が強固になるだけだ。
ここはおとなしく様子を見ようと、全身から余計な力を抜く。
私が白旗を上げたことで久喜さん自身も落ち着きを取り戻したのか、徐々に腕が緩み始めた。
(……こういうことをするから、勘違いしちゃうんじゃない! もう!)
これは部下に対する上司からの愛情であって、それ以上の意味は、きっとない。
やや過剰な気もするけど”常識”なんていう概念は人によってまちまちだし、私の”普通”と久喜さんの”普通”の間には、大きな溝があるのだろう。
はあっとため息をつくと、
「……遠藤」
ようやく彼が私に話しかけてきた。
「はい」
「聞きたいことがある」
まずこの状況を真っ先に説明してほしいと感じたが、久喜さんには何か思うところがある様子だ。
私は素直に「はい」と頷く。
「……昼間のことだが」
「昼間……ですか」
面談5分前に戻ると宣言しておきながら、ギリギリになってしまったことを怒っているのだろうか。
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