痛み無しには息ていけない

~壱~

丁寧に梳かされた黒髪を一つに結ぶ。
その上から、明るいクリーム色の三角巾を着けた。
作業しやすいように水色の長袖シャツの袖を捲ろうとして、右腕の大きな裂傷の痕と、今朝増えた無数の小さな引っ搔き傷に気付いて、再びシャツの袖を下ろす。

此処は調布市内のとあるスーパーのバックヤード。精肉コーナー。
今日は此処に、新作のソーセージの普及キャンペーンに来ている。いわゆる試食販売スタッフだ。
さすがに23区の東側に住んでる自分としては、調布市内までチャリで来る事は体力的に不可能で、久々に電車に乗った。


「すみません、終わりました」

「あ、はい」


時刻は9時40分。
“準備が終わったら声かけて”と精肉コーナーの担当さんに言われていたので、声をかける。
担当さんは返事しつつ、自分を上から下まで眺める。
担当さんの視線が、自分の顔の高さでピタリと止まった。

試食販売スタッフの身だしなみは厳しい。
清潔感第一だし、爽やかさも大事だし、髪が乱れてるなんてもってのほか。
自分はいつも水色のシャツを着ているが、青は試食販売では“食欲が落ちて、購買意欲が落ちてしまう”と敬遠されがちなので、爽やかさ重視と言えども水色とかの淡い色でギリギリ許される感じである。
……髪は長らく黒髪のままだし、ちゃんと結んできたし後れ毛もピンで留めたし、まだ何かあったっけ…?


「マスクして下さい、この御時世ですから。でないと、売り場に立たせられません」

「あ、はい。…すみません」


鞄からマスクを1枚出して、渋々顔に着ける。
くそっ。何とかマスクしないでやり過ごせるかと思ったのに、やっぱ無理だったか。
…蒸れて暑いんだよ。声も余計に張らなきゃいけないし。


「では、こちらへ」

「はい」


担当さんの後について、バックヤードの精肉コーナーを横断する。
担当さんは事務所内で小さな棚のある可動式のテーブルを示し、コレを使うように指示してきた。
< 18 / 56 >

この作品をシェア

pagetop