壊せない距離
定時を過ぎ、もう入ることのない本社のビルを見上げる。

3年間、いろいろなことを学ばせてもらって、今では良い職場だったと思える。
怒られたことも良い思い出になるんだから、不思議。

最後の通勤電車に揺られて、いつもより遠い実家に帰宅した。
年末年始ぶりに帰省した母親は快く出迎えてくれたけれど、理由を話した途端大激怒だから、困った。

「どうしてそんな大事なことを、こんなギリギリで話すの。」
「…言おうと思ってたのは本当なんだよ、でも、タイミングがなくて。」

リビングのテーブルに向かい合って座った母親は、はぁ、と呆れたようにうなだれながらため息をこぼす。
そんな風にしたくなるのも仕方がない。

娘が突然帰省したかと思えば、退職していて、今度は大阪に引っ越すというのだから。

けれど、昔から堅実な人生を歩もうとしていた私が思い付きでこんなことをするはずがないことも、分かってくれていた。

「大阪じゃなきゃ、ダメだったの...?」
「…東京にいるのは、疲れちゃって。」

もう一度、はぁと深いため息をついた母は、それでも、私を受け入れてくれた。

「何かあったらすぐに連絡しなさいよ。」

今までは一人暮らしをしていても東京という、近い距離にいた娘が。
突然新幹線や飛行機でなければいけない距離に行ってしまうんだから、心配してくれるんだろう。

「ごめんね、ありがとう。」
「さ、ご飯作るから、もう少し待ってなさい。」
「あ、お母さん、あのね。このことは、誰にも言いたくないから、聞かれても何も言わないで。」
「…蒼くんにも?」

多分、察してくれたんだろう。母親というのは怖い人だ。嫌なことまで見抜かれている気分になる。

「うん、蒼にも。」
「分かった。誰にも言わない。」
「ありがとう、お母さん。」

二度目のお礼の後、キッチンに向かった母は小さな声で、最後の問いを私に投げかけた。

「…蒼くんと、何かあったの。」

過去に何度も、蒼とはどうなっているのかを聞いてきた母親も。今回はそんな冗談を言えないことを分かっている。

「蒼とは、今も昔も、何もないよ。」

悲しいくらいに、彼は私のことなんて何とも思っていないんだから。



その日の夜、蒼に向けてメッセージを打った。

『明日の17時、蒼の部屋で待っててほしい。』

たった一言。最後まで自分勝手な呼び方に、蒼も呆れるかもしれない。
けれど、これで最後にするから。

明日だけ、許して―――
そのメッセージに、既読マークはついているのに、蒼から返事は来なかった。



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