恋の手札に参りゃんせ
前祭(さきまつり)の宵々山や宵山では、京都の町に出店が並びそれはそれは賑わう。日常を忘れる浮世離れした光景が京都を包む。
道は碁盤の目のような作りをしている。
かつての京の都を作られた何某が道を整備した。
「あねさんろっかくたこにしき」と言う道を覚える歌まであって、歌いながら指折って、タクシーの運転手に「何本目の道曲がって下さい」なんて言う事もあるほどに、京都は筋と通りの名前を覚えてしまえば迷いはしない。
祇園祭で賑わうのは、出店が出るこの2日間。
あとは神様への奉納になる為出店は出ないが、山鉾巡行や花笠巡行を見ようとそれでも客は押し寄せた。
日本の三代祭の一つであり、日本でもっとも伝統ある奥ゆかしい祭であるが故であった。
舞妓や芸妓の衣装が、季節に合わせて月毎に変わるのと同じで、この頃舞妓の髪結いも変わる。
普段はおふくと呼ばれる日本髪を結った舞妓達だが、祇園祭の頃は勝山という髪型に変える。
そして簪も祭用に仕立て直すので、それはそれは華やかだ。
勝山の輪げの間に梵天という簪を差すのだが、撫子を模したそれが夏らしく爽やかで、前には団扇の簪をさしたりと、普段とは一段と違ったものだった。
この時期は、裾引く着物も夏用になるけれど、だらりの帯やらなにやら暑いものは暑い。
お客さんによっては浴衣で良いという時もあり、比較的に浴衣の舞妓が昼も夜も京都の街を練り歩いていた。
白地に流水紅葉の爽やかな浴衣を纏ったその妓は、名を「たか雛」と言う。店出しの時引いてもらった姉さんのたか尚から引き継いだ「たか筋」だ。
勝山に結えたその黒髪には、団扇の簪がこさえてあり、団扇には「たか尚」「たか雛」と名前が刺繍されていた。
たか雛は夏の京都の風物詩、床どこで風に煽られていた。
床と言うのは、鴨川に面した店が、夏になると出す「オープンテラス」のような物。
昼間は暑い京都でも、夕べからは鴨川の清流から爽やかな風が吹きつけ涼しい納涼スポットであった。
「納涼床」とも言う。
20畳程のその場所に、畳が敷かれ、机とふかふかの座布団が並べられている。
人気の床だから満席で、自分たち以外の客もガヤガヤと過ごしていた。
隣の席に舞妓がいようが、少し良いとこのお店だと、客も慣れているのか気にしていないようだった。
芸妓のたか尚がそよそよと「先斗町」と書かれた内輪でたか雛を仰ぐ。
「スンマヘン姉さん」
色白の顔がさらに真っ青になり細い眉をハの字にして、たか雛は姉さんのたか尚に泣きつく。
床どこの手すりにもたれたまま、再起不能状態であった。
「ええし、もう慣れたわ。それにしてもほんまに慣れへんねえ」
たか尚は芸妓であるが、浴衣に洋髪と軽装である。浴衣のたか雛にしろ、今日のお客さんは優しい。
少し離れた座敷では、そのお客さんを囲んで、ほかの舞妓達がワイワイと話しに華を添えていた。
たか雛は、器量も良くて気立ても良い、それから舞も好きで三味線も得意ときた優秀な舞妓だった。
好奇心旺盛で、なんだってやって見せたが、どうもお酒が弱いので、お酒を一緒に飲みたいと言うお客からは疎遠にされた。
ほんの3%のアルコールを一口で、体が全てを拒否するのだ。
だからたか雛には飲ませないのがルールだったのに、お客さんの悪ノリでたか雛の飲み物がアルコールにすり変わっていたわけだ。
「たか雛どないや?悪かったなあ」
気にして客の大黒が声をかけるが、
「もうほんま悪いえ大黒さん。うっとこの大事なたか雛酔わして、誰が今日踊れるんよ。もう少ししたらもどるさかいに、まっとって」
剛毅に答えたたか尚は、たか雛の背を摩りながら大黒に膨れ面を見せた。
それに大黒は鼻の下を伸ばして、「怒ったたか尚も可愛いなあ」なんて浮かれている。
「聞き捨てならへんえたか尚さん姉さん、うちかておしょさんからのお墨付きもろたのに」
大黒の隣にいた舞妓のしま哉もたか尚の言葉に膨れる。
たか雛が舞妓の中で踊りは一番と言われているが、しま哉もなかなかなのだ。
筋が違うのでたか雛ばかり贔屓されるのが面白くないし、自分のところに姉さんは今日は来ていない。
「そうどす姉さんかて踊りすごおす」
その代わり下の舞妓のしま菜が姉さんのしま哉を庇うように横から声を上げた。
「はっはっ、舞妓の意地の張り合いなんかやめえや、でも今日はしま哉の勝ちやな、なんていうても酒に強い!」
大黒は浮かれ顔でしま哉の肩を抱く。
少し離れたところでたか尚はどうでもよさそうにに眉をあげた。
当の本人のたか雛は、それどころではないので、鴨川等間隔カップルの均等な距離感をジロリと見ているしか出来なかった。
「頭が重い姉さん」
「こんなとこで簪は取られへんし我慢しよし」
「うう、」
勝山の時の祭用の簪は、豪華で派手で、普段よりはるかに重かった。
重さに耐えきれなくなって、細い首がガクリと折れた。
「ぁ」
小さな声が漏れるのと同時に、たか雛の頭から内輪のついた簪が宙を舞った。
するりと床の外に落ちていった。
「ああもう格好悪いなぁあんた」
「どうしよう姉さんからもろた簪やのに」
さすがに酔いよりも簪が落ちた事に驚いて、たか雛の目が見開かれた。
キラキラとした装飾が施されたその簪は、川縁の小石の間に落ちていた。
手を伸ばしても届くわけない。
地面からは建物一階分は離れている。
川辺の等間隔カップルもそんなこと気付くわけなく川を向いて愛を育んでいるばかり。
少し泣きそうになって姉さんをみると、
たか尚は困り顔で首を振って「後でとりに行ったらええし」とたか雛を諭した。
それからしばらくして、落ち着きを戻したたか雛も、付き添ってたたか尚も座敷に戻り、最後の料理を食べ切って、一行は店を後にした。
店が八坂タクシーを呼んでくれたけど、この祇園祭の雑渡で来れず、街まで歩いて帰ることになった。
たか雛は一人、一行とは分かれて四条大橋の脇にある、鴨川へつながる道を降りていった。
たか尚がついていこうとしたが、姉さんを付き添わすわけにもいかないので遠慮した。
川岸に降りると、ずらりと川沿いには等間隔カップルや、大学生らしい若者達で賑わっていた。
さすがに舞妓のたか雛の姿は目立つけれど、暗く、また床どこの方が煌々と明るく目立っているので、誰も彼も近づくまで舞妓だとは気づかなかった。
そもそも祇園祭のおかげで浴衣の人が多いのだ。
足早に歩いて、先ほどまでいた料亭の前にたどり着いた。
上から見ていた景色とは違って、提灯の灯りが頭のずっと上にある。街の真ん中にいるような気分になった。
川床の下にも鴨川とは違う小さな小川が流れている。
落ちないように気をつけながら、たか雛は目を凝らして辺りの地面を見渡した。
確かこの辺りに落としたはずという場所に、どうも簪が見当たらないのだ。
おかしいと思って広い範囲で探してみるけれど、どうも簪は見当たらない。
川に流れてしまったのか、はたまた誰かが拾って交番に届けてくれたのか、
たか雛は肩を落とした。
結局その日は簪を見つける事が出来なかった。