愛妻御曹司に娶られて、赤ちゃんを授かりました
プロローグ
朝から雨が降る日だった。
ぬるいような気温の中、私は傘を手に社員用の通用口からオフィスを出た。総務部受付係の人間は皆ここを使う。レインパンプスが雨をぴしゃりと跳ね上げる。
大きな傘の向こう、少し離れた一般客用のエントランス前で傘を差す男性を見た。彼は私が通用口を使うことを知らないのだろう。
近寄って傘の下から見上げる格好で覗き込んだ。子どもの頃からそうしていたように。
「佑(たすく)」
榛名佑(はるなたすく)は不意に現れた私に、驚いた顔をした。思っていた方向と違うところから待ち人が登場したからだろう。
「咲花(さいか)」
佑が私を呼ぶ。それはいつもの呼び方だったけれど、色味の薄い瞳はどこか陰を帯びていた。
「お迎えに来てくれたの?」
雰囲気には気づかないフリをして、普段の調子で声をかける。だけど、彼が何を言いたいかわかっていた。
「咲花、今日は詫びに来た」
男らしく背筋を正し、傘を下ろし、雨に打たれながら佑は私に向き合った。
「婚約破棄のこと、弟が本当にすまないことをした」
スーツも髪も濡れてしまうのに、佑は気にする様子は微塵も見せず、折り目正しく私に頭を下げる。
「やめて、佑」
私は笑って見せて、傘を拾い上げた。
顔を上げた佑に傘を差しかけ、下から見上げる。
「納得してのことだから」
「それでも」
佑は綺麗な薄茶の瞳で私を見下ろし、誓うように言った。
「咲花が幸せになれるよう、俺にできることはしたいと思う」
私は一瞬静かに凍り付き、それから不器用に笑った。
「大丈夫よ、ありがとう。わざわざ、脚を運ばせてしまってごめんなさい」
背に手を回し濡れたスーツに触れた。こんなふうに無造作に触れること自体いつぶりだろう。
「タクシー拾いましょ」
会社の前で、こんなやりとりをしても仕方ない。これじゃ、私と佑が痴話喧嘩しているように見えてしまい、それは佑のためにはならないのだ。
私は交差点の手前でタクシーを拾った。佑と乗り込み、それぞれの住まいへ送ってくれるよう指示する。
ぽつぽつと世間話をしながら、頭の中で佑の言葉がリフレインする。
『咲花が幸せになれるように』
『俺にできることはする』
「……それなら、あなたが幸せにしてよ」
私は口の中で聞こえないように呟いた。佑が私の顔を覗き込む。
「どうした?」
「なんでもないよ」
私は笑って、佑の向こうの車窓を眺めた。雨は変わらずうっとうしく降り続いている。
不破咲花(ふわさいか)27歳。
今夏、私は婚約を破棄した。
私には好きな人がいる。だけど、彼は私の本当の気持ちを知らないし、この先も私を妹としてしか扱わない。
そして、彼は来年には別な女性と結婚するのだ。
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