魔女の紅茶
気配なんて微塵もなかった。なのに声が聞こえた事に驚いて、それでも体勢を崩す事なく応答すれば、背中を預けているマットレスの左側が僅かに傾く。魔女が腰かけたであろう事は容易に想像がついたけれど、何かを言うわけでもなさそうだから腕で視界は塞いだまま、静かに唇を噛んだ。
「……噛まないで、」
「っ」
「荒れてしまうわ」
瞬間、するりとなぞられた下唇。噛むのをやめ、腕を額の方へずらせば、初めて会ったあの日のように色素の薄い瞳が己を見下ろしていた。
彼女は、覚えてなどいないのだろう。十二歳の誕生日に父親や兄に混ざり狩りへ連れ行ってもらえた事に浮かれて落馬し、さらには崖を転がり落ちて足を折った挙げ句、その事に全く気付かれてなかった憐れな子供の事など、きっと。
「……荒れたから何だっつうンだ」
「痛いでしょう」
「……別に、痛くても」
「キスした時に、私が」
「…………は、」
彼女は、知らない。だからそんな事をさらりと言ってのけるのだろう。記憶にすら残してもらえないような気まぐれで、折った足も転がり落ちた崖も落馬もなかった事にされた子供が、己を助けた魔女に対して並々ならぬ劣情を抱いていた事など、想像すらしないのだろう。
「……出来ン……のかよ」
己を見下ろすあの瞳が、頭の中から消えなかった。その日から二週間ほど経って訪れた精通は、己が組み敷いたようなアングルの中の潤んだあの瞳だった。無論それは、夢の中での出来事だったのだけれど。
恋心だとか、そんな綺麗なものじゃない。執着だと一言で済ませる事も出来ない。それでも【魔女は他を愛さない】とされているそれを、どす黒く淀んだ感情を飼い慣らす為の糧とした。己が眠らされている間に、他を愛さないはずの魔女に特別が出来ているだとか、そんなたらればは一切想像していなかったからだ。
「俺と、そういう事」
焦がれ、焦がされた、あの瞳。
そこに己ではない誰かが写っているのだと気付かされた俺の気持ちなど、この先もずっと、この魔女は知らずにいるのだろう。