魔女の紅茶

 自身を余裕で覆う影に唇を震わせながら、絶えず血を流しているゼイン様から目を逸らしたくて顔をあげた瞬間、ひ、と小さく喉が鳴る。

「そう怯えるなよ坊主。お前はまだ殺さねぇよ」

 目測で三メートル弱。頭頂部に生えたふたつの尖った耳。根元は黒く毛先に向かうほど薄くなる灰色グラデーションの体毛。頬から伸びる細い髭。人の造形とは異なる前に伸びた鼻と口があり、薄く開かれたそこから覗く牙は滴りぬめる赤黒い液体が本来の色だったであろう白を汚していた。
 視界を占めるそれらが、獣人、またはライカンスローピィと呼ばれる種族の特徴と一致しているのは一目で分かった。けれど、彼がいきなりゼイン様の喉に喰らい付いたその理由はさっぱり分からない。何故なら僕とゼイン様は会ってたったの一日。共に過ごした時間はおよそ十時間。交わした言葉数は両手で足りるかどうかぐらいに少ない。例えば、ゼイン様が過去に獣人族である彼の恨みを買っていたのだとしても僕はそれを知らされているような仲ではないからだ。仮にそうだとしても最短でそれは七十二年も前の話になる。あり得なくはないが、可能性としては低い。とすれば、「まだ(・・)殺さねぇよ」と先ほど吐き捨てられたそのセリフから察するにこの事態は魔女様絡みによるものなのだろう。
 人質か、それとも。いやでも待って。僕の命なんて、魔女様にとって何の価値も、いや、私の可愛いペット(クルル)の餌になるわね程度の価値しかないはずだ。つまり魔女様の助けなんて期待出来ないていうか期待するのが間違ってる待って詰んだ。無理無理無理だよだって相手は獣人だ。気性が荒くオツムは弱いが、彼らの身体能力と戦闘におけるセンスは人間のそれの比ではない。騎士団オリジナル甲冑と剣と盾を装備したところで、剣を振り下ろすよりも先に甲冑を壊されてなぶり殺されるか喰い散らかされるのどちらかしか結末は用意されていない。

「だからよぉ坊主」
「っ、」
「ちゃんといい声で叫んで(ないて)、ご主人様を呼べよ?」

 とはいえ、例え無抵抗でいたとしても獣人を前にした人間の命運とやらはそこに帰結するのだろうけれど。
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