悲しいジュトゥヴ
外来でたくさんの人と話す内科医の悠史は世間話が上手だ。
同じマンションの住人と遭遇したときや一緒にショッピングに行ったときの店員への対応など、本当にスマートにこなしている、と思う。しかもごく自然に、これがまっさらな自分だと言うように、嘘のない笑顔で。

「俺は社会的に完璧だよ」

31歳、大学病院勤務の医者、既婚。左手にきちんと指輪をして、クリーニングから返ってきたばかりのジャケットを羽織って、整った身なりで、堂々とそう言う。
そうね、間違いないわ。
指輪をはずさないのね、というと、面倒くさそうに彼は言った。

「結婚してるってわかってもらったほうが楽なんだ。独身ならうちの娘を、とか言われる」

いかにも想像できて、納得する。
私もまた品格のある黒いワンピースを着て、エルメスのスカーフを首に巻いて、表参道を歩く。パーフェクトな彼の一部として。わずかに欠落した彼の一部を埋めるように。

「順調かい?」

およそ一か月半ぶりに合う悠史の両親は、特に変わりなかった。相変わらず丁寧で、笑顔が優しくて、私たちを、友人同士から愛し合って夫婦になった二人だと信じている善良な人たちだ。
微笑む私の隣で悠史も笑う。

「楽しいよ。家に帰って来て、いい匂いするのが嬉しいね。それで夕飯当てるのが楽しい。ハンバーグ?肉じゃが?って。」

当たるのか、と聞いた義父に、だいたいは、と彼が言って、テーブルの一同が笑った。タイミングを見計らってウェイターがグラスにワインを注ぎ足す。

誰がどう見ても穏やかで幸せそうな息子夫婦と両親に違いない。私の薬指のショーメは嫌味なほどまぶしく光る。灯りのない場所でも輝くダイヤのカッティングがショーメの売りなのだ。幼いころ憧れたエンゲージリングのブランドだった。

「今度私たちも招待していただきたいわ」

悠史の母親が言った。私は、動揺した顔をしてしまったと思う。
その様子に気づいたかのような義父は「まだ生活も落ち着かなくて大変だろう。」と言ったが、ここで余計なことを言ったのが悠史だった。

「いつでもいいよ。いいシャンパンでも持って来て。繭子は料理上手だし、おいしいワインを頼むよ」
「楽しみだわ。繭子ちゃん、ピアノも弾いてね。楽しみよ」

義母は悠史とよく似た目じりを下げて優しく微笑んだ。音大の声楽科を出たという義母は音楽が大好きだ。大人になってから始めたというヴァイオリンもなかなかの腕前で、時々冗談のような本気で伴奏を頼まれる。
私はフォークに刺したままの真鯛を口に入れられず、静かに悠史を見た。彼は私の方を見なくて、両親の前でただただ理想的な息子としてにこやかにしていた。

帰りの車の中ではろくに会話もせず、家に帰ってリビングのソファに腰かけてウィスキーを飲もうとした彼に言った。

「勝手に話を進めないで欲しいわ」
「何が」
「ご両親を招待するなんて大変なこと、私の気持ちも考えて欲しいの。」
「いいじゃん。繭子の料理、おいしいし。食べさせてあげてよ。ピアノも、なんでもいいよ。猫ふんじゃったとか、テキトーに。」
「簡単に言わないで」

私は強い口調で言う。私たちはいつだって意見を言える関係なのだ。もっとも、悠史はこんなふうに感情的な物言いはしない。何かしてほしいときがあるときは平然とお願いをしてくる。怒っているところも泣いているところも、私は見たことがない。

「嫁の務め、と思いなさい」

そう笑って言って、彼はウィスキーのグラスを軽く回した。カラカラとむなしい氷の音が響いた。

「こういうときだけ嫁にする」

キッチンで自分の分のグラスと氷、それからドライフルーツとナッツを小皿に盛りながら言った。

「いつだって嫁だよ、かけがえのない存在だ」

彼は立ち上がってスピーカー脇の棚の前に立つ。音楽、かけよう。少し覚えたよ。繭子の好きな作曲家。ガブリエル・フォーレ、モーリス・ラヴェル、クロード・ドビュッシー、エリック・サティ。どれがいい?いくつかのCDを手に持って、笑顔で言う。
そうやってまたこの人は自由の中で私を不自由にする。

仕返しのように「なんでもいいわ」と言って、私はキッチンに立ったまま、乾杯、とグラスを傾けた。
彼が選んだサティのジムノペディが静かに流れ始める。

「こっちに来なよ。おしゃべりしよう」
「ここでいいわ。」
「どうしたの。座ったほうが楽でしょ」

一緒にソファに座ろうと、クッションを軽く叩いて私を呼ぶ。笑顔がまぶしかった。嘘じゃない、これが本当だというまっさらな笑顔が苦しかった。
彼は怒ったり、感情的になったりしない。職業病かもしれないと言う。どんな相手が来ても、相手がどんなであっても、冷静に必要なことを言わなければならないと。
感情が薄れていってるの?と聞いたら、そんなことはないと笑った。昔からこんなものだ、と。少なくとも家族ぐるみで子供のころ一緒にバーベキューをしたり、スキーに行ったりしていた頃は違った。今よりずっと幼い顔で無邪気に笑っていた。楽しいときには、もっと嬉しそうにしていた。

サティをBGMに時間はゆっくりと流れていた。

「どうしたの、立ったままで」

おいで、と手招きする。見慣れたはずの笑顔なのに、こんなに苦しい。
ナッツをのせた小皿を彼の前に置くと、私は立ったまま言った。

「なんだか、悲しいの」

悠史は何を言ってるんだというように首を傾げて笑った。
私も本当は何を訴えたいのかわからないまま、ウィスキーを飲み干した。ひっそりと流れていたのはジュトゥヴだった。

‘あなたが欲しい’

この若干重い空気にまるで似合わない優雅で軽快なワルツ調の音楽が流れていた。
この曲にどれほど情熱的な詩がのせられているなんて、悠史はきっと知らない。私がどんな気持ちでいるかも、きっと知らない。そう思うと、なんだか妙に泣きたい夜だった。

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