悲しいジュトゥヴ
マンションに一人でいたくなかった。
同時にきれいな音楽に触れたくて智に連絡をした。夕方からオーケストラとの練習があるらしく1、2時間ならいいよと言われて、午後に彼のマンションを訪れた。

このマンションを訪れることは初めてではない。グランドピアノのある大きなリビングと寝室が一つあるだけの家で、窓から見えるのもどこの街とも代り映えしない市街地だが、悪くない。
「何か弾く?」と聴かれたので、温かみのあるフォーレをと頼んだものの、気分は少しも晴れない。優しい無言歌は私をかえって苦しくする。

智の音色はパーフェクトだ。かつて短い時間ではあったが、この音色を一生聴きたいと願ったほど、愛おしい音だった。
彼は私の気持ちに気づかないまま、もう何年もこうして友達でいてくれている。そういう意味では、悠史と一緒だった。

「元気がないね」

智が笑った。

「励まして欲しいの。何か、元気が出たり、癒されたりするような曲を」

私の言葉に、難しいな、感じ方はそれぞれだから、と真面目に彼は言った。
やがてこれはどうだろう、と言うようにブラームスの最晩年の作品を彼は奏でた。ブラームスが自分自身を慰めるかのようにも聴こえる、美しくも熱い旋律に泣きそうになった。私はうつむく。弾き終えた彼が私の顔を覗き込む。何か飲む?外にコーヒーでも飲みに行く?と椅子に腰かけた私の前に跪いて顔を覗き込んだ。私を心配する温かいまなざしだった。智の柔らかな笑顔は私を癒す。甘い微笑みに酔いしれるファンたちの気持ちもわかる。

「嫁と言われたことが、嫁の務めを与えられたことが、なぜか悲しかったの」

コーヒーを飲みながら私は言った。言葉にしてみて、悲しさは増した気がした。悲しい理由はわからないままだった。
智は真面目な顔をして、きちんとこちらに向き合ってくれていた。

「人を好きになることは悲しいことでもあると僕は思う」

どうでもよかったらなんとも思わないのに、好きになればなるほど、苦しいから、と。
そう言われて私は怪訝な顔をする。

「好きだから?」
「夫婦なんでしょ。何をいまさら」

さもおかしい、というように智は笑った。
違う、と。本当のことは言えなかった。私たち以外に、あの結婚を決めた八月の夜を知る者はいないし、これからも知って欲しいと思わない。二人だけがわかっていればいいことだ。智にもまた私の知らない相手がいる。唇を噛んだままの私に智は微笑んで言った。

「喜びであり苦しみである、ってある詩人が」
「フリードリヒ=リュッケルトね。ミルテの花、献呈は大好きな曲よ」

シューマンが結婚前夜に花嫁クララに捧げた歌曲ミルテの花には、愛する人を喜びであり苦しみであり、すべてであると愛を言葉にしていた。献呈、君に捧ぐという曲には、クララへの愛情すべてが感じられた。

私はありがとう、と言って、もう一曲だけおねだりをする。
そのシューマンの献呈をと思ったが、サティのジュトゥヴを弾いてもらった。

当然なことだが、自分の演奏とは比べものにならないほどその音の響きは美しい。彼の指は優美に、でも力強く踊る。明るく軽快な音楽に乗せられた‘あなたが欲しい’という情熱的な想い。
こんなふうに智に演奏を捧げられる相手が羨ましかった。
自分と悠史の間にはない熱い何かがそこにはあった。

午後四時に智のマンションを一緒に出た。彼の最寄り駅の前にあるパン屋は特にクロワッサンが美味しい。バターの風味と小麦粉の味わいが別格だと思う。大きいものを2つ、小さなチョコクロワッサンを2つ買うのがお決まりだ。あとは目についたデニッシュやバケット、食パンなどを少しずつ買うのが楽しみになっている。

その夜はアサリを買ってクラムチャウダーにして、クロワッサンを並べた夕食に悠史は笑った。朝食みたい。でもおいしいね、と。それ以上のことは話さなかったし、聞かれなかった。どこでクロワッサンを買ったのかとか、なぜクロワッサンなのかとか。
明日の朝はチョコクロワッサンでいい?と聞くと悠史は食後のコーヒーを飲みながら答えた。

「問題ないよ。それに卵料理とサラダ、スープにをそろえてくれれば。甘いパンなら果物はいらないかな」

ええ、大丈夫よ。そのようにできるわ。私が微笑むと悠史も満足そうだった。私は彼を満たしている、と思うことで、自分を満たしていた。
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