悲しいジュトゥヴ
その夜は、悠史が遅くなると言うので兄と食事をしていた。悠史が何の用事で遅くなるのかは聞いていない。ただ、行ってらっしゃい、気を付けてと見送っただけだ。

兄の奥さんの咲さんは現在つわりがひどく、まともに食事が摂れないということで、私たち兄妹が食事をすることを快く送り出してくれた。
待ち合わせの店で兄は10分程遅れて現れた。

「悪い悪い。道が混んでいた。お詫びになんでもごちそうしよう」

そう言ってお絞りで手を拭いて笑った。いつでも何でもごちそうしてくれるくせに、と思いながら私は笑った。兄はいつだって私に甘い。

「咲さん大丈夫かな」
「大丈夫だよ。本人も産婦人科医だし、自分の状態は一番よくわかってる。食事も自分で工夫してるよ。ドロドロの緑色の液体とか、ちゃんと必要な栄養があるんだって言って飲んでいるよ。とても俺は付き合っていられないけどね」
「グリーンスムージーって言ってよ」

そう言って二人で笑った。

「繭子は、どうだい。順調かな?」

兄はまるではやくも娘を持つ父親のような優しい顔つきで微笑んで言った。

「お母さんと同じようなことを言うのね。順調よ。もともと友達だったから気楽だし」

気楽、と言葉にしてみて、少しだけ寂しかった。気楽さを求めて結婚したわけではないのに、と思ったから。

「俺も悠史くんは仲良くしてきたし、昔から知ってるから大丈夫だと思うけど、なんていうのかな、その、すごく、意外だったし。ちょっとだけ心配なんだ」
「意外っていうのは?」

私が聞いたタイミングで次の料理が運ばれてきた。店員さんの料理の説明を聞きながら、言われた通りに塩とタレをつけて揚げ物を口に運ぶ。

「心配してくれてるの?」
「もちろん、大事な、かけがえのない妹だ」

堂々とそう言って、日本酒の入った美しい切子のグラスを口元に運んだ。かけがえのない、という単語に、悠史の言葉を思い出す。彼にとって私はかけがえのない嫁だということを、もう一度思い出す。
私は微笑んだが、兄は安心しなかったらしい。

「意外っていうのは、二人が結婚すると思わなかったからっていうだけなんだけど。男女のことなんて、いつどこで何があるのかわからないしね。」

そう言われて、よくわからないような気もしながら、すごく納得もできた。
私だってほんの一年前は今の生活を想像していなかった。ただ、繭子にもお嫁に行ってもらわないとね、と言われて引き合わされた男性と家族ぐるみで食事をする日々にうんざりしていたのだ。
兄は天ぷらに軽く塩をつけながら、静かに、でも確かに言った。

「きれいごとみたいだけど、思いやりをもってお互いを大切に。時には相手を傷つけない嘘が必要なこともあるかもしれないけど、なんでも話しをしたほうがいい。いいときもそうでないときもあるのが日常だから」

ちょっとだけ人生の先輩として、アドバイス、と兄は笑った。
ええ、わかったわ。ありがとう、と私も微笑んだ。最近はいろんな人が励ましてくれる。それだけ自分が不安定に見えるのかと思うと、やりきれなかった。

兄とはそれ以上は結婚について話をしなかった。あとは最近のこと、母と美術館に行ったことや、近所にいい酒屋があって、少し珍しい日本酒も楽しんでいることなど。こうして口にして振り返ってみて、充実していていい生活だと思った。これで不満を言ったらばちがあたる。
その夜はタケノコにウド、真鯛やあさりなど、山に海に春の味覚を堪能して別れた。別々の方向に帰る兄妹はそれぞれに帰る場所を持った大人だった。

マンションに帰ってドアを開けると室内が明るかったので驚いた。小さな音量でバラエティ番組らしい笑い声が聞こえる。悠史の姿が見えた。彼の自室にあるテレビの半分ほどの大きさしかないテレビを前にして、ソファにだらしなく、ほぼ横たわっているように足を延ばして腰かけていた。私はごく小さな声で、独り言をつぶやくように、そっと言った。

「ただいま」

寝ているかもしれないと思って小声でそういうと、悠史はソファから見を乗り出して、振り向いて笑顔を見せた。そしておかえり、と言った。

「どうしたの?」

私は目を丸くして聞く。上着を脱ぐことも忘れて彼の座るソファの前に座り込む。

「遅くなるんじゃなかったの?」
「遅いじゃん、十分。午後十時半。俺も食事行ってきたんだよ。高校時代部活が一緒だったやつらなんだけどさ。一人、来月からアルゼンチンに赴任するっていうから。男四人で。日本食っぽいの食べようって、結局、焼き肉!うまかったけどさ」

そういってゲラゲラと笑う悠史からは少しにんにくや煙のにおいがするようだった。

「繭子は?悟くんと何食べてきたの?」

悠史は、兄を悟くんと呼ぶ。子供のころからそうだ。
高校時代の仲間と会って若返ったかのような彼は少年の眼差しで瞳を輝かせて言った。

「お刺身とか、山菜の天ぷらとか。日本酒と。」

いまだ悠史がここにいることに驚いたままの私は単語を並べただけのような返事をしてしまったが、悠史はにこやかによかったね、と笑った。

「軽く飲もうよ。待ってたんだ。」

そういって、彼は琥珀色の液体と氷の入ったグラスを見せる。お気に入りのIWハーパーの12年物を飲んでいた。あのウィスキーのボトルは表面が細かくボコボコしていて、それは宝石みたいにきれいで、棚に並んでいてもちょっと目を見張る。ウィスキーの中でもとりわけ甘い香りでまろやかでとてもおいしい。銀色のアイスペールの横には私のために用意された揃いのバカラのグラスが用意されていた。待っていた、という言葉が本当だと実感する。待ってくれている人がいるということが、これほどありがたいことか。そして思いがけず一緒に過ごせることが何より嬉しかった。

私はソファに座って自分と彼の二つのグラスに氷を入れながら嬉々として言う。

「今日のお店すごくおいしかったの。お刺身なんてもうプリプリ。タケノコのグリルも香ばしくて絶品で。デザートのいちごのソースのブランマンジェも最高だったわ。」

ね、今度一緒に行きましょう。

私が満面の笑みで誘うと悠史はたいして興味がなさそうに言う。

「繭子が作ってよ。見様見真似でいいからさ。うちで食べるのが一番いいよ。俺も日本酒飲みたい」

予想外の返事に困った顔をすると、彼は困らせるつもりじゃないよ、とでも言うように笑ってリモコンを操作して映画のダウンロード画面を見せる。

「映画を観よう。懐かしの名作、どう?」

少年のように無邪気に、この夜の楽しさを分かち合おうと誘ってくる。こんな彼の笑顔も幾度となく見てきたはずなのに、若干見える揃った歯並びも、細めた目の端による皺は昔から知っている面影と重なって、何もかも、何一つ失いたくないと思ってしまう。

この人は、自室に行けば大きなテレビがあるのに、お金を払えばいくらでもおいしいものが食べられるのに。
そう思うと今、彼がここにいることがたまらなく貴重なことに思えた。
この家で、このリビングで二人きりでお酒を飲める夜を、このひとときを、私はこの瞬間の一つ一つを決して忘れたくない。

リビングの大きいとも小さいとも言えないテレビには、地球滅亡の危機と戦いながら、様々な人間たちの愛のドラマが映っていた。
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