その瞳に涙 ― 冷たい上司の甘い恋人 ―
「あとでね、碓氷さん」
わざとらしくオフィス仕様の呼び方をした広沢くんが、至近距離で綺麗に微笑む。
そうしてギュッと私の心臓を鷲掴んでおいてから、私を離すその間際に、髪を纏めあげて無防備になっている首筋に一瞬だけ噛み付いてきた。
「ちょっ……」
焦って声をあげたときにはもう広沢くんは私のそばを離れていて、電車から降りた乗客の波に流れて先へと進んでしまっている。
噛みつかれた場所を押さえて慌てていると、肩越しに振り向いた彼が私を見て意地悪く笑った。
それがなんだかシャクに触る。
首にあてた手を離して、何事もなかったみたいにツンと歩き出してみたけれど、噛み付かれたところは空気に触れて、いつまでもチリチリとした。
あぁ、もう。出勤前に変な余韻を残してくれちゃって。
「ムカつく……」
ため息とともに思わずこばした言葉は、もうずっと先に行ってしまった彼には届かないのだ。