ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
 巡野と初めて会ったのは、わたしが新入生だったころだ。京都に引っ越してきて三日目。大学附属の総合博物館に行ってみたら、そこに巡野がいた。
 その日の巡野は、今ここで爽やかに笑う巡野とはまるで違う顔をしていた。怨霊になる一歩手前だった。ほとんど地縛霊と化していた。

 ――回れない、出られない、動けない、死ねない、生きていない、回れない。

 地を這うような声で、そう繰り返していた。壁に向かって歩いていこうとする格好で、けれども、全身にどれだけ力を込めても前に進めない様子で、呪詛の言葉を吐いていた。

 ――回れない、出られない、動けない、死ねない、生きていない、回れない。

 ほかの誰も巡野の姿が見えていないようだった。ずっと誰にも気付かれずに、巡野は一人でそこにいたのだろう。
 いつからなのか。たぶん、古い陳列館が半分削られて、新しい博物館が建ったときからだ。

 わたしは恐る恐る、巡野に声を掛けた。そうしないといけない気がした。
「きみは死者でしょう? なぜここにいるの?」

 巡野はわたしを見た。
 地縛霊の巡野がどんな顔立ちだったか、どんな表情をしていたのか。わたしははっきりとは覚えていない。おぞましい目をしていたことは確かだ。今の巡野からは想像もつかないほど、真っ暗な目だった。

 とっさに後ずさるわたしに、巡野は手を伸ばした。がたがた震えるその手は、人間らしい肉や皮をまとっていなかった。

 ――水でも飴でも何でもよい、我に与えよ。
 ――貴様の声で我が名を呼べ。

 巡野の思念が耳かどこかから流れ込んできた瞬間、全身に鳥肌が立った。皮膚の内側に虫が這い回るような感覚だった。
 関わってはいけない、と常識がわたしに警告した。でも、もう関わってしまっているじゃないか。
 救ってやらなければならない、と本能がわたしを突き動かした。救いたいから関わったんだろう?

 そのとき持っていたのも金平糖だった。
 老舗の金平糖屋が大学のすぐそばにある。じっくり三ヶ月かけて結晶化させる作り方は、幕末のころから少しも変わっていないらしい。

 わたしは金平糖を一粒つまんで、巡野に差し出した。
「あげる。食べて」
 亡者の冷たい手と触れ合った。巡野はがたがた震えながら金平糖を口に運んだ。

 次の瞬間、ふっと、わたしの体が軽くなった。
 巡野もそうだったらしい。床にめり込んでいた足が解放されて、巡野はたたらを踏んだ。袴《はかま》を穿いていた。足元は下駄ではなく、革靴だった。

 そこらじゅうに立ち込めていた黒い靄《もや》が、ぱっと晴れた。
 初めて、巡野の顔がはっきりとわかった。
 巡野がこちらを見ていた。スタンドカラーシャツと、暗色の単衣《ひとえ》。さらさらした、少し長めの髪。繊細そうな美貌。まばたきをすると、まつげがはためくようだった。

 周囲のざわめきが耳に届いた。ちょうど観光客の集団が近くにいたのだ。古風なファッションのイケメンがいるわよ、何かの撮影かしらと、おばちゃんたちが騒ぎ出していた。
 巡野はわたしの腕をつかんで、ぐいと引き寄せた。巡野の手のひらも、生きた人間だったらわたしに触れたはずの吐息も、ひどく冷たかった。

 ――名前を呼んでください。ぼくは、巡野学志。

 契約の序列で言えば、わたしが主で巡野が従だった。でも、わたしは何が何だかわからず、声なき声で訴える巡野に逆らえないように感じて、その指示に従った。

「巡野、学志」
 名前を呼んだ。巡野は微笑んだ。
「ありがとう」
 巡野は初めて声を発した。ちゃんと人間の耳に届く声だった。
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