ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
弦岡先生はこともなげにわたしに問うた。
「来年の夏休みは空いていますか?」
「夏休みですか」
「予算が取れました。発掘調査のプロジェクトを来年度から五ヶ年計画で動かします。浜北さんもプロジェクトに加わってもらえませんか?」
四回生最初の講義の後に資料整理の手伝いをわたしに提案した、そのときよりずっと、弦岡先生は気楽な様子だった。まるで、わたしが「はい」と答えると確信しているかのように。
わたしはうつむいた。
「来年も、わたし、復学しているとは限りません。このまま大学を辞めるかもしれません。それにわたし、国史研究室所属です。なのに、中央アジアのプロジェクトなんて……」
わたしは大学に籍を残している。でも、文学部のあるキャンパスに近寄れない。
わたしは国史研究室に所属している。でも、研究室の誰とも連絡を取っていない。
宙ぶらりんで、自信がない。何のために今ここに自分がいるのか、ふわふわとしてつかめない。それが今のわたしだ。来年の約束なんて、できるはずもない。
「返事は急ぎませんよ」
「はい」
「その代わり、発掘調査に旅立つ直前まで、尋ね続けますよ」
「……はい」
弦岡先生はお茶を飲んだ。吐息のような、ささやかな笑声。
「そう追い詰められた顔をしないでください」
「いえ、あの……」
「浜北さんが倒れてしまってから、ちょうど一年ですね。あれも十一月の半ばでしたから」
ドクン、と心臓が不穏な打ち方をした。わたしは顔を上げた。
「あのときは、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。私は、大したことは」
「切石が暴走したとき、先生が止めてくださったんでしょう?」
「偶然、付喪神である彼に対して効果の高い護符を持っていたものですから。ですが、私の目では、消えてしまった巡野くんを見付けることはできませんでした」
「わたしの体調が戻らなかったら、きっと巡野、消滅してしまったんですよね。自我を失った切石も、あのままじゃどうなってたことか。二人には本当に悪いことをしてしまいました」
弦岡先生は、ストップ、と示すように手のひらをわたしに向けた。
「浜北さんと契約を結んだときから、一蓮托生であると、彼らも理解しているはずです。あのとき彼らが多大な影響をこうむっているのを見て、不謹慎ではありますが、私は浜北さんに協力してもらいたいという考えを強めました」
「どういうことですか?」
「浜北さんはとても力が強い。栄励気の感応力がとても強いのですよ。第一線の考古学者以上の力ではないかと感じます。沙漠の下に埋もれた遺跡への道も、浜北さんならば、たやすく引き当てられるでしょう」
「でも、わたし、振り回されるばっかりです。この力をうまく使うことができずに、ただ振り回されて、いろんな刺激に過敏で、いつも具合が悪くて……お役になんて立てません、きっと」
「無理強いはしません。ですが、ただ働きをさせるつもりはありませんよ。研究費はスタッフ全員に平等に分配します。栄励気の扱い方も、私にできる範囲ではありますが、お教えします」
弦岡先生は席を立つと、本棚から一冊の本を取り出した。分厚い皮の装丁。金字で記された書名は『朝鮮王朝実録』。
ページがランダムに開かれると、びっしりと漢字が並んでいる。漢文だ。句読点も記号もない、白文と呼ばれるものだ。
「このあたりに綴じられているのは、朝鮮王朝の王から清朝の皇帝への手紙ですね。国境を侵して山に入り、朝鮮人参を採って高値で売りさばいていた農夫が、清朝の役人につかまったようです」
弦岡先生はくすっと笑って解説すると、本の上に手をかざした。
音が聞こえた。声だ。弦岡先生とは違う、朗々とした低い男の声。日本語ではない響き。
「当時の朝鮮訛りの中国語ですよ」
黒いインクがページから浮き上がった。すーっと、インクは伸び上がる。ひとりでに絵を描き始める。
まるで山水画だ。墨の濃淡によって表される、奥行きのある一枚絵。
絵は動いている。木々の葉が揺れ、粗末な衣服の男たちが現れ、土を掘る。小さな細長い植物をつかみ、男たちは笑い交わす。
弦岡先生の手のひらの下で、歴史書に記された出来事が自ら形を持って動いている。ふわふわとそよ風が吹いているように感じられるのは、弦岡先生から噴き出す栄励気だ。
「先生、どうしてこんなことが……?」
「できる資料とできない資料があるのですが、基準はよくわかりません。これはちょっとした隠し芸みたいなものですね」
「隠し芸、ですか」
「遺跡の発掘に関しては、私は案外有能ですよ。鼻が利くのです。どこに何が埋まっているか、かぎ分けられる。その方法を浜北さんにも伝授します」
「そんなこと……わたしにできるでしょうか?」
「できますよ。何か賭けてみます?」
冗談っぽく目をきらめかせて、弦岡先生は笑った。
そのときだった。
ぶわっ、と空気が揺らいだ。弦岡先生が発するものとは別の栄励気が突如、一陣の風となって現れた。
ほのかに甘いお香の匂いがする。
黒髪をきれいに結い上げた女の姿が、うっすら見え始める。
と同時に、巡野が廊下から駆け込んできた。
「ゆっくりお茶をしているところ、失礼しますね。それどころではなくなったようですので」
「巡野、何かあったの?」
「話は於富の方《おとみのかた》から聞いてください」
巡野が名を呼んだ途端、女の姿が鮮明になった。近世武家の奥方とおぼしき、於富の方。御蔭寮住まいの離島の神童、松園くんの守護霊だ。
於富の方は眉をひそめ、わたしを見つめた。
「今すぐ寮に戻るがよい。あやかしが暴れ、人々が惑うておる。そなたが戻って許しを与えねば、石灯籠の付喪神も肺病持ちのさむらいも、自在に力を振るうことがならぬ」
わたしは立ち上がった。
「切石や沖田を駆り出さないと抑えられないようなのが出たの?」
於富の方はうなずいた。
「さよう。早ういたせ。まずは寮へ参れ。戦場《いくさば》は目と鼻の先じゃ!」
「来年の夏休みは空いていますか?」
「夏休みですか」
「予算が取れました。発掘調査のプロジェクトを来年度から五ヶ年計画で動かします。浜北さんもプロジェクトに加わってもらえませんか?」
四回生最初の講義の後に資料整理の手伝いをわたしに提案した、そのときよりずっと、弦岡先生は気楽な様子だった。まるで、わたしが「はい」と答えると確信しているかのように。
わたしはうつむいた。
「来年も、わたし、復学しているとは限りません。このまま大学を辞めるかもしれません。それにわたし、国史研究室所属です。なのに、中央アジアのプロジェクトなんて……」
わたしは大学に籍を残している。でも、文学部のあるキャンパスに近寄れない。
わたしは国史研究室に所属している。でも、研究室の誰とも連絡を取っていない。
宙ぶらりんで、自信がない。何のために今ここに自分がいるのか、ふわふわとしてつかめない。それが今のわたしだ。来年の約束なんて、できるはずもない。
「返事は急ぎませんよ」
「はい」
「その代わり、発掘調査に旅立つ直前まで、尋ね続けますよ」
「……はい」
弦岡先生はお茶を飲んだ。吐息のような、ささやかな笑声。
「そう追い詰められた顔をしないでください」
「いえ、あの……」
「浜北さんが倒れてしまってから、ちょうど一年ですね。あれも十一月の半ばでしたから」
ドクン、と心臓が不穏な打ち方をした。わたしは顔を上げた。
「あのときは、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。私は、大したことは」
「切石が暴走したとき、先生が止めてくださったんでしょう?」
「偶然、付喪神である彼に対して効果の高い護符を持っていたものですから。ですが、私の目では、消えてしまった巡野くんを見付けることはできませんでした」
「わたしの体調が戻らなかったら、きっと巡野、消滅してしまったんですよね。自我を失った切石も、あのままじゃどうなってたことか。二人には本当に悪いことをしてしまいました」
弦岡先生は、ストップ、と示すように手のひらをわたしに向けた。
「浜北さんと契約を結んだときから、一蓮托生であると、彼らも理解しているはずです。あのとき彼らが多大な影響をこうむっているのを見て、不謹慎ではありますが、私は浜北さんに協力してもらいたいという考えを強めました」
「どういうことですか?」
「浜北さんはとても力が強い。栄励気の感応力がとても強いのですよ。第一線の考古学者以上の力ではないかと感じます。沙漠の下に埋もれた遺跡への道も、浜北さんならば、たやすく引き当てられるでしょう」
「でも、わたし、振り回されるばっかりです。この力をうまく使うことができずに、ただ振り回されて、いろんな刺激に過敏で、いつも具合が悪くて……お役になんて立てません、きっと」
「無理強いはしません。ですが、ただ働きをさせるつもりはありませんよ。研究費はスタッフ全員に平等に分配します。栄励気の扱い方も、私にできる範囲ではありますが、お教えします」
弦岡先生は席を立つと、本棚から一冊の本を取り出した。分厚い皮の装丁。金字で記された書名は『朝鮮王朝実録』。
ページがランダムに開かれると、びっしりと漢字が並んでいる。漢文だ。句読点も記号もない、白文と呼ばれるものだ。
「このあたりに綴じられているのは、朝鮮王朝の王から清朝の皇帝への手紙ですね。国境を侵して山に入り、朝鮮人参を採って高値で売りさばいていた農夫が、清朝の役人につかまったようです」
弦岡先生はくすっと笑って解説すると、本の上に手をかざした。
音が聞こえた。声だ。弦岡先生とは違う、朗々とした低い男の声。日本語ではない響き。
「当時の朝鮮訛りの中国語ですよ」
黒いインクがページから浮き上がった。すーっと、インクは伸び上がる。ひとりでに絵を描き始める。
まるで山水画だ。墨の濃淡によって表される、奥行きのある一枚絵。
絵は動いている。木々の葉が揺れ、粗末な衣服の男たちが現れ、土を掘る。小さな細長い植物をつかみ、男たちは笑い交わす。
弦岡先生の手のひらの下で、歴史書に記された出来事が自ら形を持って動いている。ふわふわとそよ風が吹いているように感じられるのは、弦岡先生から噴き出す栄励気だ。
「先生、どうしてこんなことが……?」
「できる資料とできない資料があるのですが、基準はよくわかりません。これはちょっとした隠し芸みたいなものですね」
「隠し芸、ですか」
「遺跡の発掘に関しては、私は案外有能ですよ。鼻が利くのです。どこに何が埋まっているか、かぎ分けられる。その方法を浜北さんにも伝授します」
「そんなこと……わたしにできるでしょうか?」
「できますよ。何か賭けてみます?」
冗談っぽく目をきらめかせて、弦岡先生は笑った。
そのときだった。
ぶわっ、と空気が揺らいだ。弦岡先生が発するものとは別の栄励気が突如、一陣の風となって現れた。
ほのかに甘いお香の匂いがする。
黒髪をきれいに結い上げた女の姿が、うっすら見え始める。
と同時に、巡野が廊下から駆け込んできた。
「ゆっくりお茶をしているところ、失礼しますね。それどころではなくなったようですので」
「巡野、何かあったの?」
「話は於富の方《おとみのかた》から聞いてください」
巡野が名を呼んだ途端、女の姿が鮮明になった。近世武家の奥方とおぼしき、於富の方。御蔭寮住まいの離島の神童、松園くんの守護霊だ。
於富の方は眉をひそめ、わたしを見つめた。
「今すぐ寮に戻るがよい。あやかしが暴れ、人々が惑うておる。そなたが戻って許しを与えねば、石灯籠の付喪神も肺病持ちのさむらいも、自在に力を振るうことがならぬ」
わたしは立ち上がった。
「切石や沖田を駆り出さないと抑えられないようなのが出たの?」
於富の方はうなずいた。
「さよう。早ういたせ。まずは寮へ参れ。戦場《いくさば》は目と鼻の先じゃ!」