ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
***
手早く身支度を整えた沖田は、一言だけ告げた。
「帰るよ」
キッパリとした意思表明だった。誰が引き止めても、邪魔をしても、沖田は宣言を行動に移すだろう。だから誰も、わたしも、沖田がやることを拒まなかった。
わたしは沖田に背負われて、寮への帰路に就いた。
沖田は切石よりずっとやせている。腰なんか本当に細い。
「ねえ、重くない?」
「別に」
「わたし、歩くよ」
「逆に厄介だからやめて。だいたい、あんたひとり背負って数町歩くくらい、何ともないんだ。子どものころから、自分より体が大きい怪我人や酔っぱらいを背負って運ぶことも多かったからね」
「意外。面倒見がいいんだ」
「仕方ないだろう。おれはいつも手当てをする係さ。おれに怪我をさせるような使い手はいない。正体をなくすまで酒を飲むなんていうのも、何が楽しいのか全然わからないし」
高原通を南へ歩く。
住宅街だ。建物の切れ目から、赤い夕日が差している。アスファルトに固められた車道を自転車が走っていく。自動車はさほど多くない。電信柱、コンクリート塀、どこかの庭先から漏れ聞こえるテレビの音。
沖田の目に、二十一世紀の日本はどんなふうに映っているんだろう?
「知らない場所にいて疲れない?」
沖田は素っ気なかった。
「別に」
機嫌を損ねたままらしい。わたしは、沖田の不機嫌に気付かないふりをした。
「巡野は、この時代に肉体を持って存在することになったとき、すごく喜んだよ。切石はしばらく驚きっぱなしで、何をしでかすかわからなくて、危なっかしかった」
「それは巡野さんからも切石さんからも聞いた」
「そんな雑談をするほど仲いいんだ?」
「同じ部屋だからね。ちょっと無理やりでも、おれに話しかけてくる」
「あいつらなりにきみを気遣ってるんだと思う」
沖田の背中は骨がとがっていて、少し痛い。ぼーっとする視界の中、沖田の耳のすぐ後ろ、襟足の生え際に、ほくろがあるのを発見した。
さっきのわたしの問いに、沖田は答えた。
「知らない場所だからどうとかこうとかって話。おれは特に喜んでもいないし、そこまで驚いてもいない。おれがまともに外に出るのは今日が初めてだけど、このとおり」
「平然としてる、か」
「そうか、こんなもんか、と思ったよ。それだけ。例えば、空の色がうぐいす色だったり、山の色が紫色だったりでもすれば、ここは化け物の世界だろうかって驚いただろうけど」
「きみを驚かせるには、建物や乗り物や衣服の形が違うくらいでは足りないということ?」
「そういうの、あんまり興味ないからね。でも、この時代にはずいぶんと弱っちいやつが多くて頼りないなって、それはちょっと驚いた」
「切石もそこはずいぶん驚いてた。でも、力がなくても生きていられるのはいいことだ、みたいなことを言ってもいた」
沖田が乾いた笑声を転がした。
「あの人は二回、大火にさらされたんだってね」
「うん。自分がこの世に存在していると気付いたのが、応仁の乱のとき。初めて人型に顕現したのが、どんどん焼けのとき」
「どんどん焼けか。おれたち新撰組が蛤御門《はまぐりごもん》で長州軍とやり合って、その後に起きちまった大火だ。残党狩りのさなか、長州の息がかかった屋敷に火がついて、あっという間に燃え広がった」
「京都の町の南半分、かなり広く焼けたんでしょう?」
「ひどいもんだったよ。あれを防げなかったせいで、新撰組はずっと責められ続けている」
沖田の声は沈んでいた。
わたしは切石のことに話を戻した。
「切石は石灯籠として、長い年月の間、いろんな庭を転々としていたんだって。どんどん焼けのときは火事に巻き込まれた。庭から出られなくなったあるじ一家を救いたくて、気付いたら、あの姿になっていたらしい」
「あの強靭な体は大したもんだよ。不動明王の梵字が彫られていたんだっけ。あれだけ力のある妖怪を、浜北さんはよく従えているよね」
わたしは寮長の更紗さんの言葉を思い出した。彼女は巫女だ。人それぞれの道しるべを、言葉の形にして授けてくれる。
入学したてのころ、博物館で巡野を拾ってしまったわたしに、更紗さんは告げた。正体の見えなかったわたし自身の特性に、名前を与えてくれた。
「わたしの生まれ持った能力、『拾得』って呼べるらしいんだ」
「拾得? 拾っちまうってこと?」
「うん。ケガレを預かるのも、幽霊や付喪神を目覚めさせるのも。切石は百五十年くらい寝てたらしいんだけど、わたしが近付いたとき、なぜか起きちゃったんだって。それがわたしの能力」
「だから、おれのことも引き寄せた?」
とがめる響きはなかった。沖田の口から出る言葉はいつも、さらりとしすぎている。投げやりなようにも、何も考えていないようにも聞こえる。
その軽やかさが、わたしには少し怖い。生きたいと、沖田が考えていないみたいで。
「確かに、わたしは呼んだよ。山南さんの墓の前で、沖田総司という人のことを考えた」
「そうなんだ」
「でも、たったそれだけでは、わたしがきみを拾うことはできない。きみの側にも何かあったと思う。ここへ来てしまうような原因が。わたしときみが呼応したのでなければ、時の流れも彼岸との境も越えた道が穿たれるはずがない」
踏み込みすぎているかもしれない。わたしはちらりと肝が冷えたが、沖田は相変わらず素っ気なかった。
「原因ねえ。何だろうな」
そう言いつつ、本当はきっと何も考えていない。
手早く身支度を整えた沖田は、一言だけ告げた。
「帰るよ」
キッパリとした意思表明だった。誰が引き止めても、邪魔をしても、沖田は宣言を行動に移すだろう。だから誰も、わたしも、沖田がやることを拒まなかった。
わたしは沖田に背負われて、寮への帰路に就いた。
沖田は切石よりずっとやせている。腰なんか本当に細い。
「ねえ、重くない?」
「別に」
「わたし、歩くよ」
「逆に厄介だからやめて。だいたい、あんたひとり背負って数町歩くくらい、何ともないんだ。子どものころから、自分より体が大きい怪我人や酔っぱらいを背負って運ぶことも多かったからね」
「意外。面倒見がいいんだ」
「仕方ないだろう。おれはいつも手当てをする係さ。おれに怪我をさせるような使い手はいない。正体をなくすまで酒を飲むなんていうのも、何が楽しいのか全然わからないし」
高原通を南へ歩く。
住宅街だ。建物の切れ目から、赤い夕日が差している。アスファルトに固められた車道を自転車が走っていく。自動車はさほど多くない。電信柱、コンクリート塀、どこかの庭先から漏れ聞こえるテレビの音。
沖田の目に、二十一世紀の日本はどんなふうに映っているんだろう?
「知らない場所にいて疲れない?」
沖田は素っ気なかった。
「別に」
機嫌を損ねたままらしい。わたしは、沖田の不機嫌に気付かないふりをした。
「巡野は、この時代に肉体を持って存在することになったとき、すごく喜んだよ。切石はしばらく驚きっぱなしで、何をしでかすかわからなくて、危なっかしかった」
「それは巡野さんからも切石さんからも聞いた」
「そんな雑談をするほど仲いいんだ?」
「同じ部屋だからね。ちょっと無理やりでも、おれに話しかけてくる」
「あいつらなりにきみを気遣ってるんだと思う」
沖田の背中は骨がとがっていて、少し痛い。ぼーっとする視界の中、沖田の耳のすぐ後ろ、襟足の生え際に、ほくろがあるのを発見した。
さっきのわたしの問いに、沖田は答えた。
「知らない場所だからどうとかこうとかって話。おれは特に喜んでもいないし、そこまで驚いてもいない。おれがまともに外に出るのは今日が初めてだけど、このとおり」
「平然としてる、か」
「そうか、こんなもんか、と思ったよ。それだけ。例えば、空の色がうぐいす色だったり、山の色が紫色だったりでもすれば、ここは化け物の世界だろうかって驚いただろうけど」
「きみを驚かせるには、建物や乗り物や衣服の形が違うくらいでは足りないということ?」
「そういうの、あんまり興味ないからね。でも、この時代にはずいぶんと弱っちいやつが多くて頼りないなって、それはちょっと驚いた」
「切石もそこはずいぶん驚いてた。でも、力がなくても生きていられるのはいいことだ、みたいなことを言ってもいた」
沖田が乾いた笑声を転がした。
「あの人は二回、大火にさらされたんだってね」
「うん。自分がこの世に存在していると気付いたのが、応仁の乱のとき。初めて人型に顕現したのが、どんどん焼けのとき」
「どんどん焼けか。おれたち新撰組が蛤御門《はまぐりごもん》で長州軍とやり合って、その後に起きちまった大火だ。残党狩りのさなか、長州の息がかかった屋敷に火がついて、あっという間に燃え広がった」
「京都の町の南半分、かなり広く焼けたんでしょう?」
「ひどいもんだったよ。あれを防げなかったせいで、新撰組はずっと責められ続けている」
沖田の声は沈んでいた。
わたしは切石のことに話を戻した。
「切石は石灯籠として、長い年月の間、いろんな庭を転々としていたんだって。どんどん焼けのときは火事に巻き込まれた。庭から出られなくなったあるじ一家を救いたくて、気付いたら、あの姿になっていたらしい」
「あの強靭な体は大したもんだよ。不動明王の梵字が彫られていたんだっけ。あれだけ力のある妖怪を、浜北さんはよく従えているよね」
わたしは寮長の更紗さんの言葉を思い出した。彼女は巫女だ。人それぞれの道しるべを、言葉の形にして授けてくれる。
入学したてのころ、博物館で巡野を拾ってしまったわたしに、更紗さんは告げた。正体の見えなかったわたし自身の特性に、名前を与えてくれた。
「わたしの生まれ持った能力、『拾得』って呼べるらしいんだ」
「拾得? 拾っちまうってこと?」
「うん。ケガレを預かるのも、幽霊や付喪神を目覚めさせるのも。切石は百五十年くらい寝てたらしいんだけど、わたしが近付いたとき、なぜか起きちゃったんだって。それがわたしの能力」
「だから、おれのことも引き寄せた?」
とがめる響きはなかった。沖田の口から出る言葉はいつも、さらりとしすぎている。投げやりなようにも、何も考えていないようにも聞こえる。
その軽やかさが、わたしには少し怖い。生きたいと、沖田が考えていないみたいで。
「確かに、わたしは呼んだよ。山南さんの墓の前で、沖田総司という人のことを考えた」
「そうなんだ」
「でも、たったそれだけでは、わたしがきみを拾うことはできない。きみの側にも何かあったと思う。ここへ来てしまうような原因が。わたしときみが呼応したのでなければ、時の流れも彼岸との境も越えた道が穿たれるはずがない」
踏み込みすぎているかもしれない。わたしはちらりと肝が冷えたが、沖田は相変わらず素っ気なかった。
「原因ねえ。何だろうな」
そう言いつつ、本当はきっと何も考えていない。