ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
***
早朝の喫茶店が好きだ。
マスターはすでにキッチリと支度を整え、ラジオを聞きながら客の訪れを待っている。
東大路通に面した学子堂の表扉を開けると、店内は少し薄暗い。コーヒーの香り。カラン、とドアベルが鳴る。
「おや、いらっしゃい」
マスターは穏やかに笑ってラジオを止めた。
「お……お久しぶりです」
黙ってうなずいたマスターは、どうぞ、と手振りで示した。わたしはぎこちなさを自覚しながら、頬に力を込めて唇の両端を吊り上げた。
店は、奥行きがある造りだ。奥の席のほうが明るい。そこに広い窓があるのだ。一面のガラスの向こうには中庭がある。
わたしがいちばん好きなのは、中庭の見える隅っこの席だ。
足音を忍ばせるように、わたしは静かな店内を歩く。数歩で振り返った。入口のところで、沖田が足を止めている。
「どうしたの?」
「いや……ここは、おれがこの成りで入っていい場所なのか?」
沖田は、藍色の羽織の裾《すそ》をちょっとつまんでみせた。
高級な店ではない。むしろ、近隣の喫茶店の中でも手ごろな価格の部類だ。学子堂という名のとおり、学生が文庫本を手に長居をする、そんな店。
沖田の目が、ぐるりと店内を見渡す。
年月によって磨かれた木造の内装。深い緑に塗られた壁を、ほのかな橙色に光るランプが照らしている。シンプルさが上品だ。白髪を撫で付け、ネクタイを締めたマスターもまた、有能な執事めいて泰然としている。
ああそうか、と、わたしは思い至った。沖田の目に映る範囲に、沖田の時代の日本と接点を持つようなものが一つもない。
「まるで異国みたいだって、気後れしてる?」
沖田は首をかしげた。
「異国ってこんなふうなの?」
「じゃあ、何だと思った?」
「おれはあんたたちみたいに異国の事情に詳しくないんだ。見慣れないものを見たら、この世のものじゃあないみたいだって思っちまう」
穏やかな笑いが、率直で失礼な沖田の言葉を包み込んだ。マスターが笑っている。
「なるほどなるほど、あの世ですか。しゃれた総髪に二本差し、江戸の言葉を使わはるとは、あなた、幕末の壬生からでも来はりましたか?」
「……わかっちまうものかな」
「ただ一歩とはいえ、店に足を踏み入れてはるさかい。まあ、何となくですわ」
沖田はなおも立ち尽くしている。
アスファルトの道路も自転車や自動車も平気なくせに、今日はどうしたんだろう? この店に入ることをそんなにためらうのは、なぜ?
「ねえ、入れば? ほかのお客さんが来たら、そこ邪魔だよ」
「わかってるけど」
マスターがやんわりと言った。
「店内に隠し部屋はありませんよ。天井にも壁にも床にも仕掛けはありません」
「そいつは本当?」
「ほんまです。しかし、私がそう説明しても、何やら妙なものを感じ取ってしもて、足が前に出えへんのでしょう?」
沖田はうなずいた。
「ただの店じゃないよね、ここ。外から見えるよりもずっと、大勢の人間を隠しておける場所だ。底なし沼みたいで気味が悪い」
それを聞いて、やっとわたしも腑に落ちた。
沖田は死線に生きてきた。のほほんとしているようでも、嗅覚が鋭くて警戒心が強い。
壬生の屯所で、新撰組の面々は二階に上がるのを嫌ったという。天井が低くて刀が抜きづらい上、窓が狭くて脱出困難。万一の際にあまりに危険だ。
どこに刺客がまぎれているかわからない店に、しかも、この世ではないかのような雰囲気の場所に気安く立ち入ることなど、沖田にはできない。
早朝の喫茶店が好きだ。
マスターはすでにキッチリと支度を整え、ラジオを聞きながら客の訪れを待っている。
東大路通に面した学子堂の表扉を開けると、店内は少し薄暗い。コーヒーの香り。カラン、とドアベルが鳴る。
「おや、いらっしゃい」
マスターは穏やかに笑ってラジオを止めた。
「お……お久しぶりです」
黙ってうなずいたマスターは、どうぞ、と手振りで示した。わたしはぎこちなさを自覚しながら、頬に力を込めて唇の両端を吊り上げた。
店は、奥行きがある造りだ。奥の席のほうが明るい。そこに広い窓があるのだ。一面のガラスの向こうには中庭がある。
わたしがいちばん好きなのは、中庭の見える隅っこの席だ。
足音を忍ばせるように、わたしは静かな店内を歩く。数歩で振り返った。入口のところで、沖田が足を止めている。
「どうしたの?」
「いや……ここは、おれがこの成りで入っていい場所なのか?」
沖田は、藍色の羽織の裾《すそ》をちょっとつまんでみせた。
高級な店ではない。むしろ、近隣の喫茶店の中でも手ごろな価格の部類だ。学子堂という名のとおり、学生が文庫本を手に長居をする、そんな店。
沖田の目が、ぐるりと店内を見渡す。
年月によって磨かれた木造の内装。深い緑に塗られた壁を、ほのかな橙色に光るランプが照らしている。シンプルさが上品だ。白髪を撫で付け、ネクタイを締めたマスターもまた、有能な執事めいて泰然としている。
ああそうか、と、わたしは思い至った。沖田の目に映る範囲に、沖田の時代の日本と接点を持つようなものが一つもない。
「まるで異国みたいだって、気後れしてる?」
沖田は首をかしげた。
「異国ってこんなふうなの?」
「じゃあ、何だと思った?」
「おれはあんたたちみたいに異国の事情に詳しくないんだ。見慣れないものを見たら、この世のものじゃあないみたいだって思っちまう」
穏やかな笑いが、率直で失礼な沖田の言葉を包み込んだ。マスターが笑っている。
「なるほどなるほど、あの世ですか。しゃれた総髪に二本差し、江戸の言葉を使わはるとは、あなた、幕末の壬生からでも来はりましたか?」
「……わかっちまうものかな」
「ただ一歩とはいえ、店に足を踏み入れてはるさかい。まあ、何となくですわ」
沖田はなおも立ち尽くしている。
アスファルトの道路も自転車や自動車も平気なくせに、今日はどうしたんだろう? この店に入ることをそんなにためらうのは、なぜ?
「ねえ、入れば? ほかのお客さんが来たら、そこ邪魔だよ」
「わかってるけど」
マスターがやんわりと言った。
「店内に隠し部屋はありませんよ。天井にも壁にも床にも仕掛けはありません」
「そいつは本当?」
「ほんまです。しかし、私がそう説明しても、何やら妙なものを感じ取ってしもて、足が前に出えへんのでしょう?」
沖田はうなずいた。
「ただの店じゃないよね、ここ。外から見えるよりもずっと、大勢の人間を隠しておける場所だ。底なし沼みたいで気味が悪い」
それを聞いて、やっとわたしも腑に落ちた。
沖田は死線に生きてきた。のほほんとしているようでも、嗅覚が鋭くて警戒心が強い。
壬生の屯所で、新撰組の面々は二階に上がるのを嫌ったという。天井が低くて刀が抜きづらい上、窓が狭くて脱出困難。万一の際にあまりに危険だ。
どこに刺客がまぎれているかわからない店に、しかも、この世ではないかのような雰囲気の場所に気安く立ち入ることなど、沖田にはできない。