ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
 わたしは数歩の距離を戻った。沖田に手を差し出す。

「一緒に来て。十五歩だけ我慢して歩いてくれたら、底なし沼の正体がわかって安心できると思う」
 沖田はわたしの手を見て、わたしの顔を見た。
「手を引かれるのは苦手だよ。刀を執れないだろう」

 気を取り直すようにかぶりを振ると、沖田は素直に足を踏み出した。草履は床に吸い付くみたいに、少しも音を立てない。
 わたしは先に立って歩く。奥まで行って振り向き、ガラス越しに、明るい庭を指し示した。

「見て。きみが感じた気配の正体は、この庭だよ。確かにここは異空間的な広さだけど、誰も隠れてなんかいない。自分の目で確かめてみて」

 緑豊かな日本式の庭園が広がっている。離れがあり、あずまやがある。白砂の枯山水が鴨川を模して流れている。弧を描く橋の対岸には竹林が鬱蒼と茂っている。
 ビルの谷間にあるはずの庭園だ。だが、圧倒的に広い。寮の中庭よりも広いだろう。竹林の先がどうなっているのか、わたしも知らない。

 衣ずれの音とともに、沖田がわたしの隣に立った。
「誰もいないね。静かだ」
 沖田は長い息をついた。微妙な位置に浮いていた右手が、だらりと脱力する。

 マスターはカウンターの向こうから、何事もなかったかのように告げた。
「どうぞ、お好きなお席へ」

 わたしはお気に入りの席に着いた。ちょうど朝日が差し込んできて明るい。沖田もわたしの向かいに、そっと椅子を引いて腰掛けた。
 そういえば、椅子に座ることも、沖田はこの時代に来て初めて経験したはずだ。その割に、しなやかに背筋を伸ばした所作には不慣れな様子がにじまない。

「何だよ。おれのことじろじろ見て」
「御蔭寮は和洋折衷の造りで、どっちかというと和風寄りだけど、食堂の机は洋風だよね。きみは最初から普通に椅子に腰掛けて、一人ぶんずつの膳じゃない広い机を使うことにも戸惑わなかった」

 沖田は、呆れた様子の笑みを浮かべた。
「戸惑うなんて。その程度の仕草、真似できないわけがないだろう? 剣術でも柔術でも、見たばかりの技をすぐやってみせるのがおれの特技だ」
「ああ、なるほど」

「この特技、宴でもけっこう重宝されたんだよ。その気になれば、簡単な舞くらい、一度で覚えるからさ」
「それ、わたしの苦手なやつだ」

「だけど、あんたは頭がいい。おれ、舞は覚えられるけど、芝居の口上みたいなのは、何度聞いてもからっきしだ。言葉を覚えるのが苦手でね。ああ、そろばんも苦手。字もさほどうまくないし」

「字は、そこまでひどくないんじゃない? 読みやすい字だと思うよ。筆遣いがたどりやすいから、読み間違えずに済む。行間のばらつきがあって、おおざっぱだなって感じはするけど」

 沖田はぽかんと口を開けると、しかめっ面になって庭のほうへ視線をそらした。
「おれは書家でも何でもないから、人に見せるための字なんか書かない。手紙でも盗み見たの?」
「ごめん。きみの手紙、博物館で展示されてる」
「やめてよ」

「土方さんよりマシだと思うよ。土方さんは、俳句が印刷されて売られてる」
 沖田は噴き出した。
「それはさすがに恥ずかしがって怒り出すかもね。いつか傑作ばかりを編んだ句集を作るんだとは言ってるけど、おれが知る範囲では、傑作はまだ一つも詠めてないから」
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