ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
カツ、カツ、と革靴の足音が近付いてくる。マスターだろう。沖田が顔を上げる気配があった。
マスターの柔らかな声がした。
「お待たせしました」
わたしはうなずくふりをしてうつむいた。沖田がわたしの代わりに、思いがけないほど優しく、ありがとう、と言った。
その優しい響きのせいだ。きつく歯を食い縛ったのに、閉じたまぶたの内側に涙を抑えておけなくなった。
カチャ、カチャ。ごく控えめな音を立てて、マスターがテーブルをセットする。呑み込む嗚咽《おえつ》に、コーヒーの香りが混じった。
「それでは、ごゆっくり」
革靴を鳴らしてマスターが離れていく。タイミングを計っていた様子で、沖田がわたしの肩をつついた。
「ほら、まず顔拭いて」
横目を薄く開くと、ブルーのハンカチが差し出されていた。わたしはハンカチをひったくって、目元を押さえた。
「ハンカチなんて持ち歩いてたんだ?」
「巡野さんに持たされた」
「そこで種明かしするのは興ざめだと思う」
「そうかい。嘘や演技は苦手でね」
わたしは何度もまばたきをして、沖田に向き直った。沖田が真剣な顔をしていたから、驚いた。
「何でそんな顔してるの?」
「バカなこと訊くね。嘘や演技は苦手なんだってば」
「聞き流してくれてよかったのに」
「聞けって言ったのはあんただし、おれもちゃんと聞くって言った。聞かなきゃって気付いたんだ。おれが探してる答えは、きっと、あんたの話の中にあるんだって」
「答え? そんな明快なもの、わたしは持ってないよ」
「持ってるよ。教えてよ。いなけりゃいけない場所に所属することさえ苦しいって、それはどういう気持ち?」
「え……」
「やっぱりおれにはわからないんだよ。まわりと違う考えを持ったら、所属しているということ、それは鎖でしかなくなるの? 所属という鎖につながれっぱなしじゃあ、倒れちまうくらい、逃げ出したくなるくらい、死にたくなるくらい、つらいのか?」
沖田の唇が震えた。張り詰めた目に日の光が映り込んで、鋭いほどに輝いている。
「それは、本当に、わたしが答えるべき問いなの?」
本当に答えてほしい人は、わたしではない。ほかにいたんじゃないの?
ふい、と沖田は顔を伏せた。
「食べようか」
幕が下りた、と感じた。
わたしが語るべき言葉は、今は尽きた。
沖田は、湯気を立てるコーヒーにミルクと角砂糖を入れた。わたしはミルクだけ入れる。
「砂糖、いる?」
「ちょうだい」
「甘いものが好きだね」
「コーヒーは、香りはこんなに甘くて香ばしいのに、味がきついからね。苦いのは好きじゃないんだ」
わたしはカップに口を付けた。白い陶器は温かい。唇が冷えていたことを知る。学子堂のコーヒーは、ミルクを入れるとまろやかで、少し酸味がある。
一年ぶりの味だ。おいしい。
ハンバーグセットはごくシンプルだ。ハンバーガーと、付け合わせは自家製ポテトサラダで、赤いサクランボが添えてある。
沖田はハンバーガーを手に取った。挟んだ形を崩さないまま、パンとパンの間をしげしげと観察する。
「食べるのが不安?」
「これ、何が入ってるんだって?」
「肉を叩いて丸めて焼いたものと、輪切りにした玉ねぎ。たれは、野菜や香辛料を煮詰めて作った洋風のもの。全部まとめて頬張って食べる」
手本を見せるつもりで、わたしが先にハンバーガーをかじった。
柔らかすぎないパン、ジューシーすぎないハンバーグ、濃厚すぎないデミグラスソース。邪魔するもののない、素っ気ないくらいの味わいは、おにぎりを思わせる。わたしはこれが好きだ。
ちょっと顔をしかめて一口かじった沖田が、あ、と声を漏らした。
「うまいね、これ」
そして大口でかぶり付く。
「肉だけど、平気?」
沖田はうなずいた。もぐもぐしながら笑った口の端に、デミグラスソースが付いている。
カラン、とドアベルが鳴る。いらっしゃい、とマスターが言う。学生らしき人が、慣れた様子で席に着く。客は早口の小声で何かを注文し、マスターも心得顔で応じる。
一年ぶりに再会した、馴染みの光景だ。見るともなしに見ていたら、マスターと目が合った。
どうぞごゆっくり、とマスターは唇の形で告げ、微笑んだ。目尻にはカラスの足跡のような優しいしわが刻まれている。
大丈夫だ。この場所は、怖くない。
「浜北さん」
「何?」
沖田が、フォークにすくったポテトサラダをわたしの口元に差し出した。
「これは何? どんな味?」
「イモをゆでてつぶして味付けした料理。寮でも出たことあるはずだけど」
「何なのかわからなくて食わなかった。味見してみせてよ」
口答えしようとしたら、すかさず口の中にポテトサラダを突っ込まれた。ほくほくしたイモの食感が強い。
「……ほら、食べられるから」
沖田は、ふぅん、とハミングするような声を漏らすと、あろうことか、わたしの皿のポテトサラダをフォークでかっさらっていった。ぱくりと頬張る。
「悪くないな、これも」
「じゃあ、次に寮食で出たら、好き嫌いせずに食べなさい」
「はいはい」
沖田の口の端には、まだデミグラスソースが付いている。でも、教えてやらない。
カラン、と、またドアベルが鳴った。わたしの好きな、朝の喫茶店の時間が、ゆるゆると優しく流れていく。
マスターの柔らかな声がした。
「お待たせしました」
わたしはうなずくふりをしてうつむいた。沖田がわたしの代わりに、思いがけないほど優しく、ありがとう、と言った。
その優しい響きのせいだ。きつく歯を食い縛ったのに、閉じたまぶたの内側に涙を抑えておけなくなった。
カチャ、カチャ。ごく控えめな音を立てて、マスターがテーブルをセットする。呑み込む嗚咽《おえつ》に、コーヒーの香りが混じった。
「それでは、ごゆっくり」
革靴を鳴らしてマスターが離れていく。タイミングを計っていた様子で、沖田がわたしの肩をつついた。
「ほら、まず顔拭いて」
横目を薄く開くと、ブルーのハンカチが差し出されていた。わたしはハンカチをひったくって、目元を押さえた。
「ハンカチなんて持ち歩いてたんだ?」
「巡野さんに持たされた」
「そこで種明かしするのは興ざめだと思う」
「そうかい。嘘や演技は苦手でね」
わたしは何度もまばたきをして、沖田に向き直った。沖田が真剣な顔をしていたから、驚いた。
「何でそんな顔してるの?」
「バカなこと訊くね。嘘や演技は苦手なんだってば」
「聞き流してくれてよかったのに」
「聞けって言ったのはあんただし、おれもちゃんと聞くって言った。聞かなきゃって気付いたんだ。おれが探してる答えは、きっと、あんたの話の中にあるんだって」
「答え? そんな明快なもの、わたしは持ってないよ」
「持ってるよ。教えてよ。いなけりゃいけない場所に所属することさえ苦しいって、それはどういう気持ち?」
「え……」
「やっぱりおれにはわからないんだよ。まわりと違う考えを持ったら、所属しているということ、それは鎖でしかなくなるの? 所属という鎖につながれっぱなしじゃあ、倒れちまうくらい、逃げ出したくなるくらい、死にたくなるくらい、つらいのか?」
沖田の唇が震えた。張り詰めた目に日の光が映り込んで、鋭いほどに輝いている。
「それは、本当に、わたしが答えるべき問いなの?」
本当に答えてほしい人は、わたしではない。ほかにいたんじゃないの?
ふい、と沖田は顔を伏せた。
「食べようか」
幕が下りた、と感じた。
わたしが語るべき言葉は、今は尽きた。
沖田は、湯気を立てるコーヒーにミルクと角砂糖を入れた。わたしはミルクだけ入れる。
「砂糖、いる?」
「ちょうだい」
「甘いものが好きだね」
「コーヒーは、香りはこんなに甘くて香ばしいのに、味がきついからね。苦いのは好きじゃないんだ」
わたしはカップに口を付けた。白い陶器は温かい。唇が冷えていたことを知る。学子堂のコーヒーは、ミルクを入れるとまろやかで、少し酸味がある。
一年ぶりの味だ。おいしい。
ハンバーグセットはごくシンプルだ。ハンバーガーと、付け合わせは自家製ポテトサラダで、赤いサクランボが添えてある。
沖田はハンバーガーを手に取った。挟んだ形を崩さないまま、パンとパンの間をしげしげと観察する。
「食べるのが不安?」
「これ、何が入ってるんだって?」
「肉を叩いて丸めて焼いたものと、輪切りにした玉ねぎ。たれは、野菜や香辛料を煮詰めて作った洋風のもの。全部まとめて頬張って食べる」
手本を見せるつもりで、わたしが先にハンバーガーをかじった。
柔らかすぎないパン、ジューシーすぎないハンバーグ、濃厚すぎないデミグラスソース。邪魔するもののない、素っ気ないくらいの味わいは、おにぎりを思わせる。わたしはこれが好きだ。
ちょっと顔をしかめて一口かじった沖田が、あ、と声を漏らした。
「うまいね、これ」
そして大口でかぶり付く。
「肉だけど、平気?」
沖田はうなずいた。もぐもぐしながら笑った口の端に、デミグラスソースが付いている。
カラン、とドアベルが鳴る。いらっしゃい、とマスターが言う。学生らしき人が、慣れた様子で席に着く。客は早口の小声で何かを注文し、マスターも心得顔で応じる。
一年ぶりに再会した、馴染みの光景だ。見るともなしに見ていたら、マスターと目が合った。
どうぞごゆっくり、とマスターは唇の形で告げ、微笑んだ。目尻にはカラスの足跡のような優しいしわが刻まれている。
大丈夫だ。この場所は、怖くない。
「浜北さん」
「何?」
沖田が、フォークにすくったポテトサラダをわたしの口元に差し出した。
「これは何? どんな味?」
「イモをゆでてつぶして味付けした料理。寮でも出たことあるはずだけど」
「何なのかわからなくて食わなかった。味見してみせてよ」
口答えしようとしたら、すかさず口の中にポテトサラダを突っ込まれた。ほくほくしたイモの食感が強い。
「……ほら、食べられるから」
沖田は、ふぅん、とハミングするような声を漏らすと、あろうことか、わたしの皿のポテトサラダをフォークでかっさらっていった。ぱくりと頬張る。
「悪くないな、これも」
「じゃあ、次に寮食で出たら、好き嫌いせずに食べなさい」
「はいはい」
沖田の口の端には、まだデミグラスソースが付いている。でも、教えてやらない。
カラン、と、またドアベルが鳴った。わたしの好きな、朝の喫茶店の時間が、ゆるゆると優しく流れていく。