ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―
 更紗さんと渡辺の間で話が付いたみたいだ。御蔭寮の陣営が数歩下がり、熊野寮勢が靴を脱いで廊下に上がった。
 御蔭寮の外観は洋館風だが、中はほとんど日本式で、靴を脱いで玄関を上がる。部屋は基本的に畳敷きだ。たびたび他寮の襲撃を受ける廊下は、雑巾がけレースによって磨き上げられ、つやつやしている。

 更紗さんはこちらを向いて手招きした。かたわらには、水を張ったバケツと数枚の雑巾。
「沖田さん、いらっしゃい。走ってくださる?」

 両陣営にざわめきが起こった。沖田に視線が集まる。
 沖田は軽く手を挙げた。

「はいはい。居候は口答えしないよ。体を動かすのは久しぶりだけど、まあ、そんじょそこらの連中よりは速いんじゃないかな」

 わたしは目を剥いた。
「まじでやるの?」
「やるよ、まじで。ちょっとこれ持ってて」

 これ、と、まず押し付けられたのは二本の刀だ。次いで、袂《たもと》から取り出した小さな巾着袋。
「ちょ、か、刀って……」
「重いだろう? 死んでも落とすな。誰にも奪われるなよ、浜北さなさん」

 名前を呼ばれた。ずん、と心臓が圧迫された。
 沖田はわたしにとって契約の主だ。沖田もそれを理解して、使い魔や下僕を扱うように、わたしに刀を持たせている。

「わかったよ」
 わたしは刀を抱き締め、巾着袋を懐に突っ込んだ。

 更紗さんは再び沖田を呼んだ。熊野寮陣営の第一走者はすでに雑巾を構え、手首や脚のストレッチを始めている。
 沖田は、袂から出した襷《たすき》で、くるりと袖をまとめた。わたしに軽く手を振る。笑った沖田の口元にえくぼができることに、わたしは気が付いた。

 いつの間にか、天井に長江くんの唇が現れている。
〈両陣営の第一走者が決まったようですね~。スタートラインには雑巾がスタンバイしております。我らが御蔭寮陣営、沖田総司選手が今、ゆっくりとスタートラインに向かっています。さすがの風格。実にリラックスした様子ですね~〉
 長江くんによる実況中継で、にわかに両陣営のテンションが高まる。

 沖田が位置に就いた。
 ざわり。
 風のようなものが湧いた。いや、ただの風ではない。まるで熱波だ。沖田の袴がふわりと膨らむ。

「栄励気だ……次元が違う」
 膨大な栄励気が、沖田の両脚に集まる。集まり続ける。やせた病身のどこにそんな栄励気をたくわえていたのか。人間がまとえる栄励気のキャパシティを超えている。あんなんじゃ体が壊れてしまう。

 驚愕のざわめきが場に広がった。
 沖田はそっと笑う。

 スターターの長江くんが号令を発した。
〈用意……始め!〉

 凝縮した栄励気が、その途端、解き放たれた。
 沖田は飛び出した。消えたと錯覚する。それくらいの猛スピードで、沖田は駆けていった。

 わたしは思わずつぶやいた。
「人間わざじゃないな」
 病をわずらっているくせに、あの身体能力なのか。幕末の京都には沖田レベルの剣客がごろごろしていたというけれど。

 あっという間にロの字の廊下を一周してきた沖田が、容赦なく熊野寮の走者を追い掛ける。御蔭寮陣営に歓喜の声が、熊野寮陣営に絶望の声が上がった。
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