人妻の指先
 彼女を駅まで見送って、しかし彼はその別れ際に、なんとも声をかけなかった。かける言葉を用意してきたはずだったのに、瞳を見交わした瞬間に、その言葉を飲み込んでしまった。フロントガラスに差し込んでくるネーブル色の光も弱々しく、人影もまばらになってきた駅前の道路は、限りなくまっすぐに伸びているかのように思われた。その道が今は彼の帰り道なのだったが、車を走らせてふと、隣に彼女がもういないのだということが知れてくると、無性に、寂しさともつかないやりきれなさが募ってくるのだった。

 夕餉の支度時なのだ。今日は駅前のスーパーの特売日なのかもしれない。ビニール袋から覗くネギの青い頭が、彼にはうらめしく思えた。そうして、そんな主婦たちが見せる賢い姿はやはり彼女にはふさわしくないと考えた。不良な女というわけでもないのに、たとえようもないはげしさを秘めている。彼女は不敵な人妻であるという理由で、どこまでも美しかった。けれど、夕餉の支度は彼女にもあるらしい。

 彼は高速を降りて、自分の住む街へと帰ってきた。自分は彼女になんと声をかけるつもりだったのかと、振り返った。人妻である彼女を奪うつもりではなかったのかと、自分に問い直してみたのだった。

 数時間前まで子供じみたじゃれ合いを楽しんで、無邪気に遊んでいたのだ。

「君は生意気で強情っぱりで、やっぱりほんとは子供なんだ」と、彼は自分にも言い聞かせるように言った。

 彼女はにこりともせず、やはり勝気な瞳を彼に向けて、そのはげしさを訴えたのだった。

 彼が彼女の手を取った時、その指先は不幸にもささくれだっていた。彼女が主婦の顔つきなどおくびにも出さないのは知れていても、その指先には人妻の苦労がありありと灯るようだった。もう風も冷たい季節だから、人妻の指先が余計に沁みてくるのだ。

 彼女の夫は悪性リンパ腫を患って、入院中の身であった。この病は他のガンと違い、外科手術をもって治療することができないという。しかも彼女の夫の場合は再発であって、ガンの進行は末期のステージ4と診断されていた。つまり死はもうそこまで迫っていて、ともすると病人は愛する妻の見舞いと世話とが、世の中との唯一のつながりなのかも知れなかった。それで彼女の苦労は、ささくれだった指先にも、髪の毛が伸びてきた根元の暗い色にも現れているのかと、彼は思わずにはいられないのだった。

 そう思うと、子供じみた無邪気さに遊んでいる彼女が、彼の中でまた生き生きとしてくるのだった。人妻を誘惑しようとする男の前に我が身を投げ出して、彼女はまったく一個の生命としてみずみずしく存在していた。不敵な美しさを浮かべてー。

 国道に合流したところで、彼は自分のわだかまりが何であるかをようやく掴めかけてきているような気がした。すると、これから車を走らせて帰る道のりを思って、どっと疲れが湧いてきた。彼女のまとっていた涼やかな残り香がまだ漂っていて、それは救いだった。

 信号で停まると、横断歩道を女の子と男の子が手をつないで渡ってきた。女の子は七つか八つ、男の子は四つか五つと見えて、女の子は男の子の姉だろうか。二人と三、四メートル離れたうしろに母親と思われる女が、携帯電話を片手にうつむいて歩いている。姉は弟の手を引いて、片時も目を離さないとでもいうように頑なな足取りだった。横断歩道を渡りきった後でも、姉は下唇を噛んだまま、弟の手を離さなかった。

 彼の街を覆うように立ち並ぶビルの向こうから、重い雲が膨れ上がってきた。明日の予報は雨と聞いていたけれど、気の早い空はもうすぐ濡れてきそうだった。弟の手を引いていた姉は、その頑なな心で、どこまでゆけるだろう。

「そばにいてあげてくれ。今できることを精一杯してあげてくれ」と心に思い浮かべた言葉を、やはり彼は飲み込んだまま、そうして眼を閉じると、彼女の不敵な美しさに責められるのだった。
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