可愛らしさの欠片もない
・プロローグ
……あ…、ほぉ…。…な、に……この感じ…感覚、凄く久しぶりかも…。
今まで気がつかなかっただけなのだろうか。乗っていた車両が今日は偶々同じになったのだろうか。どちらにしても“お初にお目にかかります”ってこと。………フフ。なんだか。あっ。一人で薄笑いしてるって気をつけなきゃ…。周囲の人が引いていくかもだ。それはそれでこの状況なら有り難いことだけど。
世に存在する男性の中で、それも電車の中でなんて、確率は低いものに違いない。ちょっとラッキー…、かなりラッキーだ。……いい感じ。
…あっ。少し揺れて一、二歩足が動いた。危ない!あ。後退りして車体に体がコツンとぶつかった。さすがに立ってるだけでは踏ん張りが効かなかった。
『お。おっと、ごめん、大丈夫ですか?』
うわっ…ち、近い!
『あ、はい、大丈夫です』
…ふぅ。嬉しいけど、いきなりなんて…変な汗が出ちゃう。
『それなら良かった、驚かせてごめん』
『そんな…有り難うございます』
咄嗟に手をついたのは揺れたせいだから仕方ないこと。そんなこと全っ然気にしません。謝らないでください。……顔の近くでつかれた手は……体勢が整うと離れた。当然、顔も近くにあった。あ、待ってください……。しばらくこのままでも…。私は一向に構わないのですが…………。
…はぁ……なんてね。ないない…あり得ない。……はぁ。そんな…すぐ近くに立ってる訳もなく、まして車体は揺れてもない。今日も時々軋む音をあげながら、それなりに快調に走ってる。
…そう、これはいつもの妄想。…こんなことがあったらいいな、という願望が作り上げた全くの幻想だ。久しぶりに虚しい遊び…、してしまった。…いい歳をして…想像の世界でしか男性と絡めないなんて…。
勿論、全てが幻という訳ではない。その人は現実には居る。少し離れた所にだ。これは幻ではない。軽くつり革を掴み、窓の、流れる景色を眺めていた。
さっきの妄想に足りない物、それは肉声だ。…一体どんな声をしているのだろう。きっと声もいいのだろうと思ってしまう。そうであってほしいと思うからだ。当たり前だけど、どこの誰かなんて知らない。勤務先だって解らない。そういうレベル。
だけどこの時間帯、普通の日に、朝、スーツを来て電車の中に立って居る、それは普通に勤め人だと思う。勿論、断定は出来ないけど。
…今日だけスーツを着てるってことかも知れない。確率からすれば、後者の方が低いと思う。同じ車両に乗り合わせる確率だって低い。こんなことを考えながらも…目が離せない。ダークな色合いのスーツの群の中、そこだけが違う気がした。
私の心は既に持っていかれていた。
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