可愛らしさの欠片もない
「あ、…ごめんね、さっき渡しそびれちゃった。はぁ、鞄の中に入れてあったのに」
「え?」
「借りたポーチよ、お店で」
「あ、はい、大丈夫ですよ、いつでも」
「うん、有り難う。本当、突然だったから助かったの。…さっきの、びっくりした?」
いつものようにポットを洗ってくれていた。
「…」
筋腫の話の方だと思って、簡単には言葉が出なかった。彼女にあれだけ強く言ったことにも驚いたけど、それを消すくらいの内容だった。
「びっくりするよね、病気を持ち出してあんなことを言ったら。でも少しは凝らしめたかったのよ」
効いてるといいんですけど。でも、先輩は大丈夫なんだろうか。
「それから、心配しないで?」
「え?」
「子宮筋腫、違うから」
「えっ?」
「違うから」
じゃあ、それは嘘。そうか、そういうことなんだ。良かった。
「病気を理由にするのは良くないけど、咄嗟の判断だったの」
「そうだったんですね、…はぁ、では、何でもないってことで…」
「何でもなくは、ないの」
「え?」
先輩がドアのない出入り口から顔を出して廊下をキョロキョロと見た。
廊下を背に言った。
「…本当なの」
「え?」
何が本当?やっぱり筋腫…。
「本当なの、妊娠」
え?
思考も止まった。一瞬で動きも止まった。
出しっ放しになっていた蛇口を回して止めてくれたのは先輩だった。
「……あぁあ、…大変。溢れてるわよ…。今はそれ以上のことは内緒」
「あ、の…」
水で一杯になったポットを調整して台に置いてくれた。マグネット式の配線コードを取り付け、コンセントに差し込んだ。
「知らなくてもいいこと、知ると負担が増えるでしょ?だから、教えない。先に行くわね」
…妊娠。
私は慌てて廊下を見た。長い廊下は先輩の歩いて行く後ろ姿だけがあった。…はぁ。……ふぅ。
彼女が居たら大変だと思ったからだ。誰もいななかった。そうだった。先輩は誰も居ないことを確認して言ったんだ。
先輩が妊娠……。え、じゃあ、昨日のあれは……生理ではなかった…。何かの出血?何か、…先輩の中で、辻褄の合わない出血があった?突然だったからって言ってた。きっと普段、生理不順はない人なんだ。
妊娠で出血って…大丈夫なんだろうか。あぁ、出血と考えると、大量の、……流産でもしたかのように思ってしまった。少しの出血のことだってある…だろう。先輩の上手い嘘は上手すぎて、どこまでが本当なのか…。でも、妊娠は本当よね…きっと本当…。先輩が妊娠…。
………あ、仕事。フロアに行かなくちゃ。
私と大島さんのことは噂になることもなかった。誰一人、そんな噂を知らなかったということだ。火元どころか、煙も立たなかったってことだ。