可愛らしさの欠片もない

朝、大島さんの部屋を出て、私のアパートまで、大島さんと歩きながら帰った。
大島さんは休んでもいいよって、風邪だって言っとくからと言ってくれた。でも、そうしてしまうと、もう動けない、起き上がれない気がした。
だから、私は会社に行くことにした。

………変わらない。
…いつもの時間、…いつもの電車。いつもの車両…。
ドアに押し付けられるほどギューギューになりながら立っていた…。

…ガタン。車体が揺れた。珍しい。
体が壁伝いに擦られるように動いた。
トンと、顔の横に手が付けられた。あ。

『…おはよう』

『おはようございます。さっき別れたばっかりですね』

『ああ、ハハ。本当に。揺れたね、大丈夫だった?』

『大丈夫です』

『次の駅で降りちゃおうか』

『え?』

『降りて早歩きで行けば間に合うよ』

『…そうですね。ウォーキング?』

『いや、違う』

『じゃあ…、ジョギングもどき?』

『違うな』

『じゃあ…』

『デート。朝のデート』

…デート……したことなかったな……。

次は◯◯…。

『あ、ほら、降りよう』

手を引かれた。

『あ、はい』

駅を出て歩いた。きっといつもの駅まで乗ってたら、会ってしまうかもしれないって、そう思ってくれたのかもしれない。だから、強引に降ろされた。…きっと乗ってなんか来ないのに。

『……のんびり歩いてたら遅刻するかもです』

顔があげられない。

『いいんじゃない?』

『……駄目ですよ』

『駄目かな』

『…駄目ですよ』

『じゃあ、走ろう』

『え?転んじゃいます』

…走れません。そんな力、今の私にはありません。体が思うように動きません。

『いいよ、転んでも。そしたらおんぶするから』

『遅刻します』

抑揚のない言葉…。

『いいよ、遅刻しても』

手を握られたけど…体温を感じない。

『歩いて行こう』

『…はい』

歩くことしかできません。足は、ゆっくりにしか…動きません。

『会社、休んじゃおう』

もう、どうしたいんだか…。

『…クスクス、駄目です』

『駄目か…』

チラッと見られた。

『駄目です。フフ。こんなところ、見られたらきっと噂のたねになります』

『いいよ噂。俺にとっては御の字だ』

私は…困る…。

『そうですね、そうなったら…』

『反論はしない』

…そうですね。

『はい』

『肯定する』

『…え?』

…え?

『肯定しかしないから、そのつもりで』

『…何もないのに?』

『うん、何もないのに。…これからだから』

え?……これから?

『俺はとっくに好きだって言ってあるんだ。こんなことのすぐ後でなんてまだ何も考えるなんて無理だろうけど。…何だっていいんだ。咲来さんが楽しくなることをしよう?まずはそれからだ…』

…はい、…うん。……はい。……私…。
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