可愛らしさの欠片もない
…私は今、…すごくドキドキしている。焦っていた。
「キャ、ごめんなさい」
「うおっと、大丈夫ですか?」
「あ、はい、大丈夫です、…ごめんなさい」
この会話はちょっと前の会話だ。
すぐ退きます。…はぁ、…朝から本当にごめんなさい。…こんな…嘘でしょ…どうしよう。
妄想がまんま現実になった。
なったらいいのになんて勝手に願望を膨らませていたから。
さっき妙なブレーキに不意をつかれ、踏ん張ったのに気持ちとは反対に体が持っていかれた。微動だもせずしっかり立っていたその人に圧をかけるように体を押し付けてしまった。片腕を回して受け止めてもらった。そして、慌てて離れる努力をした。コツコツコツッと小刻みに後退るようにして体勢を整えた。
………はぁ、違うのよ、違う。これはちょっと…違うのよ。私が期待していたのはこんなシチュエーション、でも……相手はあなたではないのです。と言っても、この男性は何も知らないし罪もない。むしろ感謝すべき人。私に体を押し付けられ、ぽぼ全体重を受け止めたという災難しかない人だ。
望んだ場面に珍しく出くわしたと思ったら、…違った、どうでもいい人…。あ、どうでもいい人は言い過ぎだ。今はただただぶつかったことにごめんなさいだ。相手が違った。重要なポイントははそこ。……あの人は乗り合わせてもいない。……でも、…比べてはいけないけど、…この人は、私が二人くらい同時にふらついても受け止められそうなそんな人だ。……ふぅ。なんだか、有りがたかったのに、こんな風に残念な気持ちの方を強く感じてしまうのは良くない思考だな。あ、降りなくちゃ。
「あの、先程は有り難うございました」
離れてもずっと近くに要るんだから、お礼くらいはきちんと言わないと。もう会うこともないと思うし。せめて印象だけでも…。相手に解らないこととはいえ邪な気持ちから失礼なことを思ってしまった。解らないだろうけど、このお礼にはそのお詫びも含まれてます。
「あ、いえいえ。お気をつけて」
穏やかな笑顔を返してくれた。
「はい、有り難うございました」
頷いて言葉を返した。ごめんなさい…本当にいい人だな…優しそうで。将来は頼れるパパって感じで。凄くいいと思う。
本当は、だから、こういうことなのよ。現実にあるとするなら、これをきっかけに、この人と、ってのが、自然に始まるべき恋のストーリーなのよ。だけど今の私の心にはあの人が居る。だから、この貴重なハプニングもすんなり流してしまってる……。どうなの?逃がした魚はなんとか、にならない?…はぁ。
無意識に秤にかけて…上から目線?。随分と優位に立ってるじゃない。気持ちが夢を見て贅沢になってるんだな……。