蜘蛛の弾く琴
蜘蛛の弾く琴
昔、その集落には王邪《おうじゃ》と呼ばれる蜘蛛が棲んでいた。
王のように知に富み、災厄から村の者たちを救ってくれるときもあれば、邪のように牙をむき、災厄そのものとなったときもあった。
村人たちは時に知恵を乞い、時に戦ったが、王邪を味方につけることも殺すこともできなかった。
真琴《まこと》もまた、確かな終わりのない奇妙な昔話を聞いて育った。
「正兄《せいにい》さん、ここに……」
朝、真琴が障子を開けると、壁に寄りかかって坐したまま目を閉じている兄をみつけた。
正士郎《せいしろう》は夜着の上に軽く羽織りをかけただけの格好だった。しょうがない人ねと真琴は苦笑して、起こそうと屈みこむ。
陶器のような白い肌に細くしなやかな眉、男性としては華奢な体。正士郎は真琴より一回り年上とは思えないような、柔い雰囲気をまとう人だ。
ふと起こすのをためらってその面差しをみつめていると、まぶたが開く。
薄い唇が真琴と動いて笑みを作ったのを見て、真琴は慌てて身を引く。
「こんなところで眠ってはだめよ、正兄さん。まだ朝は冷えるのだから」
「うん。ごめん」
こくんと少年のようにうなずいて、正士郎は手を伸ばす。真琴は反射的にその手を取って、兄が立ち上がるのを手助けする。
「夢を見ていた」
「夢?」
「真琴がまだおぼつかない足どりで、私の後をついてきた」
首を傾けて兄がうれしそうに語るのは、幼く他愛ない思い出話だ。
「私の袖をつかむと、宝物みたいに笑った」
正士郎はふいに真琴の手を離すと、彼女の袖を引いた。思っていたより強い力に、真琴は兄の方に身を傾ける格好になる。
「大きくなったね、真琴」
耳元でささやかれた言葉に奇妙な熱を感じて、真琴の肌がざわめく。
兄はなんでもない昔のことを言っただけだ。そう思いなおして、真琴は体を離す。
朝陽の中でほほえんだ兄は、その華奢な輪郭とあいまって儚げに見えた。
綺麗、まるで魔物みたいに。幼い日にそう思ったことを、今まで覚えているのが少し怖い。今も朝、兄を起こす直前、同じように思うのも。
「支度をしよう。真琴のためにね」
こんな気持ちのまま家を出て、いいのかしら。まさかそう兄に問いかけるわけにもいかない。
「喪は昨日まで。そうだろう?」
見上げた兄の瞳を見ることができなくて、真琴はあいまいにうなずいた。
正士郎と真琴には、血のつながりがない。
彼はもらい子で、不思議なことに彼を受け入れてからの方が両親の暮らしぶりはよくなった。商売は繁盛し、病弱で出産は難しいと言われていた母は三人の娘にも恵まれた。
家族仲は円満だったが、両親はなぜか正士郎に家業を継がせようとはしなかった。二人の姉は裕福な商家に嫁ぎ、末娘の真琴に婿を取ろうともせず、ただ家には財ばかりが積もっていった。
父は待望の孫の姿を見た数か月後に安らかに息を引き取り、そんな父と寄り添って暮らしてきた母もその一月後に亡くなった。
人から羨まれるような幸せな家族を持ち、明日には縁談のある家族を訪ねる。その今日になって、真琴には奇妙な胸騒ぎがしていた。
「真琴、一緒に入ろう」
家には財があるのに、使用人は一人もいない。真琴が風呂を沸かすと、正士郎が当たり前のように誘った。
真琴は今年十六歳になった。本来なら兄とはいえ異性の前で易々と肌を見せてはいけない年なのに、両親も姉たちも二人で風呂に入るのを止めたことがなかった。
なぜかはわからないのに、誰も異を唱えない。そういうあいまいな習慣が、真琴の家にはあまりに多かった。
「後ろを向いていてね」
けれど、明日にはこの家を出て行く。一人残される兄に寂しい想いをさせてはいけない。そう思って、真琴はうなずいた。
沸いたばかりの湯がなみなみと満ちた中に、正士郎と背中ごしに浸かる。むせ返るような湯気が立ち込めていて、すぐにのぼせてしまいそうだった。
温かいね、とか、向かいの家に花が咲いたわね、などと他愛ない話をする。
「真琴は昔話があまり好きじゃなかったね」
その中でなぜか、正士郎がそんな話題を切り出した。
「そう……だったかしら」
「怖がらせるつもりはなかったんだよ。でも真琴が泣くものだから」
昔話はたくさんあるけれど、何の昔話のことを言っているのだろう。真琴は熱すぎる湯に少しぼうっとなりながら思う。
「真琴が大きくなったらねって、約束したね」
湯がたわんで、真琴の肌をするすると滑っていくものを感じた。
「温かいね、真琴」
のぼせたせいなのか、後ろから抱きすくめられたように正士郎の声を近くに感じた。
真琴には昔話が思い出せない。とても恐ろしい物語だったはずなのに、まるでいつの間にか日常にすり替わってしまったように。
「もう一度訊こう。……私のことは好き?」
昔話が瞬間的に蘇って、真琴の肩を叩いた。
恐ろしさを感じる前に、真琴の視界が黒く染まった。
光の入らない箱のような部屋で、粘着質な水音が響く。
「ほら、また入るよ」
それがこぽこぽと自分と彼の接合部からこぼれているのが、真琴には遠い世界のように感じていた。
部屋一面に広がる蜘蛛の糸。真琴はそこに縛られているのか、自分から身をからめているのか、よくわからない。
ただ彼が動くたびに彼を追うように腰を動かし、真琴の中は彼を離すまいと締め付ける。
「私は真琴が望むなら兄になった。真琴が気持ちいいなら、今は恋人だね。明日には夫になってもいい」
王邪と呼ばれた蜘蛛は、悪ではない。知と恵を与える神にもなる。
彼は柔い糸で真琴を愛撫しながら笑う。
「終わりのない昔話は好き?」
けれどまぎれもない、邪の化身だ。
真琴は答える代わりに、手足をからめて彼を深く受け入れる。
蜘蛛に弾かれて歌う琴のように、いつまでも結ばれていた。
王のように知に富み、災厄から村の者たちを救ってくれるときもあれば、邪のように牙をむき、災厄そのものとなったときもあった。
村人たちは時に知恵を乞い、時に戦ったが、王邪を味方につけることも殺すこともできなかった。
真琴《まこと》もまた、確かな終わりのない奇妙な昔話を聞いて育った。
「正兄《せいにい》さん、ここに……」
朝、真琴が障子を開けると、壁に寄りかかって坐したまま目を閉じている兄をみつけた。
正士郎《せいしろう》は夜着の上に軽く羽織りをかけただけの格好だった。しょうがない人ねと真琴は苦笑して、起こそうと屈みこむ。
陶器のような白い肌に細くしなやかな眉、男性としては華奢な体。正士郎は真琴より一回り年上とは思えないような、柔い雰囲気をまとう人だ。
ふと起こすのをためらってその面差しをみつめていると、まぶたが開く。
薄い唇が真琴と動いて笑みを作ったのを見て、真琴は慌てて身を引く。
「こんなところで眠ってはだめよ、正兄さん。まだ朝は冷えるのだから」
「うん。ごめん」
こくんと少年のようにうなずいて、正士郎は手を伸ばす。真琴は反射的にその手を取って、兄が立ち上がるのを手助けする。
「夢を見ていた」
「夢?」
「真琴がまだおぼつかない足どりで、私の後をついてきた」
首を傾けて兄がうれしそうに語るのは、幼く他愛ない思い出話だ。
「私の袖をつかむと、宝物みたいに笑った」
正士郎はふいに真琴の手を離すと、彼女の袖を引いた。思っていたより強い力に、真琴は兄の方に身を傾ける格好になる。
「大きくなったね、真琴」
耳元でささやかれた言葉に奇妙な熱を感じて、真琴の肌がざわめく。
兄はなんでもない昔のことを言っただけだ。そう思いなおして、真琴は体を離す。
朝陽の中でほほえんだ兄は、その華奢な輪郭とあいまって儚げに見えた。
綺麗、まるで魔物みたいに。幼い日にそう思ったことを、今まで覚えているのが少し怖い。今も朝、兄を起こす直前、同じように思うのも。
「支度をしよう。真琴のためにね」
こんな気持ちのまま家を出て、いいのかしら。まさかそう兄に問いかけるわけにもいかない。
「喪は昨日まで。そうだろう?」
見上げた兄の瞳を見ることができなくて、真琴はあいまいにうなずいた。
正士郎と真琴には、血のつながりがない。
彼はもらい子で、不思議なことに彼を受け入れてからの方が両親の暮らしぶりはよくなった。商売は繁盛し、病弱で出産は難しいと言われていた母は三人の娘にも恵まれた。
家族仲は円満だったが、両親はなぜか正士郎に家業を継がせようとはしなかった。二人の姉は裕福な商家に嫁ぎ、末娘の真琴に婿を取ろうともせず、ただ家には財ばかりが積もっていった。
父は待望の孫の姿を見た数か月後に安らかに息を引き取り、そんな父と寄り添って暮らしてきた母もその一月後に亡くなった。
人から羨まれるような幸せな家族を持ち、明日には縁談のある家族を訪ねる。その今日になって、真琴には奇妙な胸騒ぎがしていた。
「真琴、一緒に入ろう」
家には財があるのに、使用人は一人もいない。真琴が風呂を沸かすと、正士郎が当たり前のように誘った。
真琴は今年十六歳になった。本来なら兄とはいえ異性の前で易々と肌を見せてはいけない年なのに、両親も姉たちも二人で風呂に入るのを止めたことがなかった。
なぜかはわからないのに、誰も異を唱えない。そういうあいまいな習慣が、真琴の家にはあまりに多かった。
「後ろを向いていてね」
けれど、明日にはこの家を出て行く。一人残される兄に寂しい想いをさせてはいけない。そう思って、真琴はうなずいた。
沸いたばかりの湯がなみなみと満ちた中に、正士郎と背中ごしに浸かる。むせ返るような湯気が立ち込めていて、すぐにのぼせてしまいそうだった。
温かいね、とか、向かいの家に花が咲いたわね、などと他愛ない話をする。
「真琴は昔話があまり好きじゃなかったね」
その中でなぜか、正士郎がそんな話題を切り出した。
「そう……だったかしら」
「怖がらせるつもりはなかったんだよ。でも真琴が泣くものだから」
昔話はたくさんあるけれど、何の昔話のことを言っているのだろう。真琴は熱すぎる湯に少しぼうっとなりながら思う。
「真琴が大きくなったらねって、約束したね」
湯がたわんで、真琴の肌をするすると滑っていくものを感じた。
「温かいね、真琴」
のぼせたせいなのか、後ろから抱きすくめられたように正士郎の声を近くに感じた。
真琴には昔話が思い出せない。とても恐ろしい物語だったはずなのに、まるでいつの間にか日常にすり替わってしまったように。
「もう一度訊こう。……私のことは好き?」
昔話が瞬間的に蘇って、真琴の肩を叩いた。
恐ろしさを感じる前に、真琴の視界が黒く染まった。
光の入らない箱のような部屋で、粘着質な水音が響く。
「ほら、また入るよ」
それがこぽこぽと自分と彼の接合部からこぼれているのが、真琴には遠い世界のように感じていた。
部屋一面に広がる蜘蛛の糸。真琴はそこに縛られているのか、自分から身をからめているのか、よくわからない。
ただ彼が動くたびに彼を追うように腰を動かし、真琴の中は彼を離すまいと締め付ける。
「私は真琴が望むなら兄になった。真琴が気持ちいいなら、今は恋人だね。明日には夫になってもいい」
王邪と呼ばれた蜘蛛は、悪ではない。知と恵を与える神にもなる。
彼は柔い糸で真琴を愛撫しながら笑う。
「終わりのない昔話は好き?」
けれどまぎれもない、邪の化身だ。
真琴は答える代わりに、手足をからめて彼を深く受け入れる。
蜘蛛に弾かれて歌う琴のように、いつまでも結ばれていた。