黙って俺を好きになれ
幹さんは電話で声を聞かせてくれる約束をくれ、黙ってアパートに帰してくれた山脇さんにも深々と頭を下げた。

「・・・・・・礼を言われる筋合いでもねぇがな」

後部ドアを閉める寸前、鬱陶しそうに聞こえた。それでもわざと聞き流したりしない律儀さは、私にはやっぱりいい人にしか思えなかった。



走り去る車を見送り、部屋に戻って熱めのシャワーを浴びる。それからトーストに目玉焼きを乗せた遅い朝食。途中、山脇さんがコンビニの淹れたてコーヒーを手渡してくれたから、今度はミルクティにして。

レースカーテン越しに冬と春の境みたいな薄曇りが広がっていた。午後は晴れ間もあるらしい。そう言えばスマホの予報アプリを触ったのも何日ぶりか。天気をチェックするのは毎朝の日課だったのに。洗濯物も溜まっていて頭の中で時間割り。ひととおり掃除を済ませようか。荷造りはそれから。

・・・・・・幹さんに何も起きずにいたら。小さな楽園で始まる新しい生活に浮き立つだけだった、きっと。

あの人が棲む水に爪先を()けたくらいで、分かったつもりになったりはしないけど。でも。

今までと変わらない同じ景色も、違うレンズが填まって見えている気がする。エナ達とは違うレンズで世界を見ている、・・・そんな気がする。




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