放課後爆音少女
第八話「紫のアジサイ」

六月に入り、少しずつ梅雨の気配が近づいてきた。
三回目のスタジオ練習のために、私は桜井くんと学校からスタジオまでの道のりを歩いていたが、ジメジメとした気候のせいで、ただ歩いているだけで額に汗が滲んでくる。

しかも、ギターが重い。ギターを背負っていると、一歩一歩、歩くごとにギターの重みが肩にのしかかり、筋肉が強張るのを感じる。
でも、私は不思議と、重いギターを背負ってスタジオに向かうこの時間が嫌いではなかった。ギターを背負っていると、まるで何かに守ってもらっているような感覚に陥る。守護霊のようなものかもしれない。私の、背中の相棒。

私が暗い気持ちに引っ張られて歩みを止めそうになるとき、このギターの重みが、この肩の痛みが、そして、隣を歩く桜井くんが私を現実に連れ戻してくれる。
そうだった、歌わなきゃ、と思い出して、私はちゃんとスタジオまでの道のりを歩き始めることが出来るのだ。
そんなことを考えながらスタジオに向かっていると、道路脇の植木に紫色のアジサイが連なって咲き誇っているのを見つけて、私は思わず、わぁ…と感嘆の声を漏らした。
そんな私を気遣って、桜井くんも足を止めてくれた。

「綺麗だね。梅雨って全然好きじゃないけど、アジサイは大好きなんだ。」

私がそう言うと、桜井くんもアジサイを嬉しそうに眺める。

「確かに綺麗だなあ。でも、そのアジサイの上にナメクジ乗っかってるよ。気をつけて。」

「え…ぎゃあああああああ」

虫が大の苦手な私は、ナメクジの姿を発見した瞬間に桜井くんを置き去りにして、スタジオまで猛ダッシュした。
スタジオの扉を開けると、健太くんと中原くんが先に到着していた。
私は健太くんと中原くんに、前回のスタジオで逃げるように帰ってしまったことを謝った。

「こないだは急に帰ってごめんね。楽しかったのに。」

二人とも「いいよいいよ」と笑って許してくれた。そして、健太くんは恐る恐る、私にこう尋ねた。

「あのさ…嫌だったら答えなくていいんだけど…あの影山先輩って人、春ちゃんの元カレなの!?」

私はえぇ!?と声をあげてから、ちゃんと否定した。

「違う違う。あの人はね、軽音楽部の部長で、元バンドメンバーなの。だから、ちょっと気まずかったんだ。」

健太くんが安堵の息を漏らす。

「なぁんだ、良かったー。修羅場なのかと思ってビクビクしちゃったよ。
あの女の子は?軽音の後輩?」

私は少し迷ってから、こう答えた。

「うん、後輩だよ。ギターの子なんだ。」

今はスタジオ前だし、事細かに話すのは辞めよう。また時間があるときに、二人にも聞いてもらおう。…と思ったところでスタジオのドアが開き、桜井くんが遅れてスタジオに到着した。

「ナメクジ見つけたときの春の顔…凄かったな。ムンクの叫びみたいだった。」

「酷いこと言わないでよ…でも、置いていってごめんね。」

「顔が面白かったから許す。じゃあ、今日も練習すっかあ。」

いつも通りAスタジオを矢島さんに案内され、私たちはセッティングを開始した。
六月十五日に、私たちミルキーウェイの初ライブがある。
今日が六月八日だから、初ライブは一週間後。

音合わせを始めると、皆それぞれ、会わない間も地道に個人練習をしていたことが、出している音から読み取れた。
健太くんは苦手だったフレーズが少しずつきめ細かくなってきたし、中原くんは演奏中にアイコンタクトをよく取ってくれるようになった。
桜井くんはギターソロでトチることが少なくなったし、私も歌詞をすっ飛ばすことが無くなって、練習成果は少しずつ出始めていると思う。

何より、皆の息が合ってきた。私が息継ぎをするところで、皆も一緒に息継ぎをしてくれるような感覚だ。お互いのプレイの癖を覚え始めたんだろう。
前の練習でも、海で泳いでいる感覚と似ていると思ったが、今日は、皆で海を泳ぐような感覚だ。誰かが速く泳いでもいけないし、遅く泳いでもいけない。
同じ波の上を同じ速度で泳ぐ。皆で波に揺られて、皆で波に乗る。
波にさらわれないように注意しないといけないし、水中から誰かの足を引っ張るような真似は、絶対にしてはいけない。たちまち溺れて、息ができなくなってしまうだろう。

幸い、誰も溺れないまま、順調に曲合わせは終わった。私たちは精算を済ませ、スタジオのロビーで音についての意見を交換し合った。

「前より良くなってたよね!」と健太くんが意気揚々と声を上げる。
桜井くんは、そうだね、と相槌しつつも、冷静な分析をする。

「ただ、『染まるよ』なんだけどさ、バラードでテンポが遅いからか、皆のリズムがだらけて、だるい演奏になっちゃってる気がするんだよなあ。バラードこそ熱量を大事にしたいなって。」

私も桜井くんの意見に賛成した。

「確かに、失恋の歌だし、私ももっと感情を乗せて歌いたいなと思った。」

それを聞いて中原くんが驚く。

「そっか。俺ちょっと解釈違ったかも。淡々と弾いてる方が歌が乗るかなと思ってたけど、もうちょっと太めの音出すようにするよ。」

こういう、曲に対する解釈や、出したい音を擦り合わせていく作業は楽しいと思った。
音楽という実態のないものについて、見えないものについて一生懸命になるのは、ふと冷静になると、少し、いや、かなりおかしなことをしているようにも思えるけど、おかしなことに必死になるのは、なぜか気持ちが良かった。
実体のない見えないものに必死になるのが気持ちいいという点は、恋愛にも似ているかもしれない。

そういえば私は、ライブを目前に控えて、個人練習に必死になっていたおかげか、恋愛のことで悩む時間が少しずつだけど確実に減ってきている。
前は五日に一回は泣いていたけど、今は二週間に一回というところか。桜井くんの、短所は長所という言葉のおかげでもある。

影山先輩と愛子が付き合ってるという事実にも、最初こそ傷ついたけれど、今はなんだか馬鹿らしい。仮に愛子が私を恨んでいて、私をターゲットにして、私の大切なもの奪おうとしているとしても、私はもうギターや歌を辞めたりしない。
あんな子のために、この有意義な時間を捨てるなんて、本当に勿体無い!

私たちがあーだこーだと音についての話をしていると、隣のBスタジオから、練習を終えたのであろう女の人が汗を掻きながら出てきた。

会釈して通り過ぎていくかと思ったら、その女性は素っ頓狂な声をあげた。

「春ちゃん!?」

驚いて振り返ると、黒髪の前下がりボブを汗で濡らした女性が、キリッとした大きな目で私を真っ直ぐに見つめていた。軽音楽部の副部長、そして私の元バンドメンバー、ミカ先輩だ。

なんといったらいいか分からなくて呆然としている私を見て、ミカ先輩は綺麗な歯並びを見せて二カーッと笑い、私に勢いよく抱きついた。

「春ちゃんだー!会えて嬉しい!生きてたのね!今日個人練習しにきて良かったー!」

「い、生きてました…」

個人練習、と聞いて私は安心した。優太と影山先輩もいたらどうしようかと思った。ミカ先輩は優しい笑顔で話を続ける。

「突然軽音辞めちゃうし、心配してたよ。まあ、優太と別れたって聞いて、だいたい察してたけどね。」

私は、急に罪悪感に襲われた。ミカ先輩は何も悪くないのに、優太から逃げるようにして部活もバンドも辞めたのだ。

「本当にごめんなさい…。色々あって軽音楽部に居づらくなってしまって。」

「うん、仕方ないよね。春ちゃんがフったんでしょ。良かったよー優太みたいなダメ男と別れてくれて!」

私は戸惑う。

「いや…私がフラれました。」

ミカ先輩が、大きな目をさらに見開く。

「は!?まじで!?」

「まじです…好きな子が出来たとか言って…」

ミカ先輩はしばらく、えーー、とか、はぁー?とか言いながらのたうち回り、そしてこう宣言した。

「よし!春ちゃん、お茶しよ!はいはい男は帰った!女同士で話すよ!」

全く状況が読めない…という顔をしていた三人は、そのままミカ先輩の気迫に押されて、スゴスゴとスタジオから出て行った。桜井くんが扉を出る直前に私に声をかける。

「じゃ、じゃあな!ライブ前にもう一回スタジオ入るぞ!また連絡する!」

それを聞いてミカ先輩は「えー春ちゃんライブするの?見たい!」と言ってはしゃいでいる。
なんだか本当に自由でパワフルな人だ。
私はミカ先輩のこういうところに、バンドを組んでいるときから好感を抱いていた。

私たちはスタジオから徒歩五分ほどの純喫茶「街路樹」に移動した。
純喫茶らしい落ち着いた店内だ。アンティーク調の家具が、店の佇まいをより品のあるものにしている。緩やかなクラシックがレコードで流れていて、暖かい音が響き渡る。

極め付けに、テーブルの一つ一つに紫色のアジサイが飾られていて、私は感激した。
上品な花柄のワンピースを着た、紫がかった白髪の老婦人が「いらっしゃい」と声をかけてくれて、席に案内してくれた。
ミカ先輩がミルクティーを注文したので、私も同じものを、と言う。

「素敵なお店ですね。」

ミカ先輩はニッコリ笑った。

「私も好きなの。いつもスタジオ終わりに一人で来るんだけど、今日は可愛い子と来れて嬉しい。でもほんとこんな可愛い子をフるなんて、優太は酷い男ね!」

ミカ先輩は笑っていたかと思ったら、今はプンスカ怒っていて、くるくる表情が変わる。なんだか少女みたいだ。

「その話なんですけど、本当に色々あって。聞いてもらってもいいですか?」

「どんと来い!」

私はここ2か月で起こったことを、なるべく簡潔にミカ先輩に説明した。
優太のこと、愛子のこと、そして影山先輩のこと。
ミカ先輩は、最初は、うんうんとミルクティーを啜りながら静かに話を聞いてくれていたが、影山先輩と愛子が付き合ってると聞いたあたりから「はぁぁぁぁ」とか「うぇぇぇぇ」とか言って、怒りを露わにしていた。
興奮して机をダンダン叩くので老婦人があわてて止めに来たぐらいだ。

「せ、先輩、落ち着いて…」

「あ、ごめん。落ち着きます。ちょっと衝撃的で。あの三人そんなことになってたのか。愛子ちゃんは、部室で顔を見たことはあるけど、少ししか話したことなくて。優太と影山は、私に恋愛の話しないから。全然知らなかったよ。影山のロリコン野郎…!」

ミカ先輩がまた興奮して机をダンダン叩くので老婦人がまた止めに来る。
老婦人に深く謝罪してから、私は話の続きをした。

「私も凄く衝撃でした…。愛子ちゃんって私のこと恨んでるんですかね?
そんな噂とか、聞いたことないですか?」

ミカ先輩はしばらく黙っていた。何かを言いたげな表情だ。

「…何か知ってるんですか?やっぱり恨んでるんですか?私、事実を受け止めるので、教えて欲しいです…。」

ミカ先輩は、少し深呼吸してから、落ち着いた口調で話してくれた。

「あのね。こないだ愛子ちゃんが部室でギター弾いてたの。
で、ドラムの私でもわかるくらいチューニングも合ってないし、まあ正直へたっぴで。
ちょっと見てられなかったから教えてあげたの。チューニングした方がいいよーって。で、その流れで適当に雑談してたら、始業式の中庭ライブ凄く感動しました、って言われて。」

愛子があの中庭ライブを見ていたとは知らなかった。私は少し驚く。

「でね、私嬉しくて、『春ちゃん格好良かったでしょ〜』って言ったの。
そしたら愛子ちゃんね、『私はあの人に憧れて軽音楽部に入りました』って、凄く真剣に言ってきたの。まるで怒ってるみたいな、真っ直ぐな目だった。嘘をついているようには見えなかったよ。

しかもね、『あのとき春さんが投げたピック、私が拾ったんです。』って、大事そうに見せてくれたよ。お守りみたいに、いつも持ち歩いてるんだってさ。」

私は何も言えずに、ただ黙ってミカ先輩の言葉の意味を考えた。
本当に、よく、分からない。

「だからね、私が思うに、愛子ちゃんは春ちゃんのこと恨んでるんじゃない。本気で憧れてるのよ。そして、心から羨ましいんだと思うの。」

私は思わず口を挟んだ。

「そんなことないと思います。私に憧れてるんだったらあんな酷いことしないと思います。」

そんな私を見かねて、ミカ先輩は優しい声で話の補足をした。

「中庭ライブのときね、春ちゃん自分では気づいてないかもしれないけど、本当に輝いてた。私後ろから見てて誇らしかった。春ちゃんのあの姿に憧れた新入生は多いと思う。
愛子ちゃんも、その一人なんだよ。で、普通の子は、楽器を練習したり、歌を練習したりして、春ちゃんに近づこうとする。
でもあの子、ギターや歌じゃ到底春ちゃんに敵わないの、練習してみて気づいたんじゃないかな?
春ちゃんの才能は、生半可な努力じゃ手に入らないって知ったとき、せめて、春ちゃんの周りの男の子だけでも手に入れたいと思ったんだよ。きっと。」

私の頭の中は情報過多でパニック寸前だった。
受け止められるものなら受け止めたい。けど、受け止められない自分がいる。
私はミカ先輩に何も言えないまま、俯いてしまって、ただ静かに時間が流れた。
しばらく、クラシック音楽のピアノの音だけが店内に鳴り響く。


私はようやく沈黙を破った。

「綺麗な曲ですね。」

ミカ先輩が笑った。

「ほんとだね。曲名は分からないけど。このお店は、レコードもアジサイも、手入れが行き届いてて凄く好きなの。」

確かに、店内を見渡すと、大量のレコードがガラス棚に丁寧に収納されている。アジサイも枯れているものは一つもなく、どれを取っても瑞々しい。

「私アジサイの花が好きなんです。だから凄く嬉しくて。今日スタジオに行く途中にもアジサイがあったんですけど、ナメクジがついてて。」

それを聞いてミカ先輩が笑う。

「それは災難だったねえ。」

「アジサイの花びらの上に乗っかってたんです。私大声あげちゃいましたよ。」

それを聞いて、ミカ先輩は悪戯っぽく笑った。

「ねえねえ春ちゃん。雑学なんだけど。私たちがアジサイの花びらだと思ってる部分は、花びらじゃないんだって。」

私は驚く。

「え!?そうなんですか!?花びらにしか見えない…」

「うん、試しに、この花びらに見えるところ触ってみて。」

見た目よりもずっと硬くて、なんだかゴワゴワしている。

「もっと柔らかい花びらを想像してました。桜みたいな。」

「花びらに見えるのは『ガク』っていうの。本当の花びらはね、この真ん中の小さな部分。」

確かに、よくよく観察すると、中央部分に、ほんの数ミリ程度の花が見える。

「全然知らなかったです。本当の花びらはこんなに小さくて見つけにくいんですね…。」

ミカ先輩は、アジサイの花びらのように見えるガクという部分を、優しく撫でながら呟く。

「何が本当かなんて、分からないものだよね。分かりやすいものを信じちゃう。」

私は本当の物が見えていないんだろうか。本当っていうのはなんだろう。
考えだすと、気が滅入ってしまいそうだ。
私は気分を一掃したくて、水を一気に飲み干した。すると、老婦人がすぐに水を継ぎ足しにきてくれた。

「ありがとうございます。」

私が老婦人にお礼を言うと、老婦人は、グラスに水を注ぎながら、ポツリポツリと話し始めた。

「このアジサイはね、咲き始めは淡い黄緑色、それが青くなり、やがて赤くなり、紫色になるんだ。そして最後は緑色になって、枯れていくんだよ。」

「へーー…色が変わるんですね。」

「花も人もね、いろんな色になるんだよ。一色じゃない。いろんな顔があるんだ。
だから私はね、この店で、花も育てるし、レコードも聴くし、紅茶も淹れる。

まだまだ枯れないよ。お嬢ちゃんたちは若いから、何色にでもなれるんだから。忘れないでね。」

老婦人が、初めて私たちに笑いかけてくれた。圧倒されてポカンとしている私たちをよそに、老婦人は颯爽とカウンターに戻り、微笑みながらレコードの手入れを始めた。

ミカ先輩が机を叩くのを止めに来たときの怖い形相とは、まるで別人みたいだ。
人はいろんな色を持つ。この紫のアジサイみたいに、赤と青が入り混じることも出来るんだ。
私も、ミカ先輩も、そして愛子も。いろんな顔を持っているのかもしれない。

ミカ先輩が、はーっと息をついた。

「なんか、凄い人だよね。だから私この店が好きなのかもしれない。アジサイも、レコードもいいけど、あのおばあちゃんが好きなんだ。
だから、好きな女の子しかここには連れてこない。私、春ちゃんのこと、好きよ。」

ミカ先輩がいつものように、綺麗な歯並びを見せて二カーッと笑う。
私もつられて笑う。私もミカ先輩が好きだ。

何が本当かなんて分からない。十七年間、花びらと信じていたものすら、花びらではないんだから。本当のことを見つけたとしても、花の色のように物事は移り変わっていくのだとしたら、愛子の本当の気持ちなんて尚更分からない。
でも、この店で流れていた優しい時間のことは本当だと、いつまでも信じていたい。

私とミカ先輩は、ミルクティーを飲み干してからも、クラシックに耳を傾けながら、アジサイをゆっくりと眺めていた。

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