ありふれた献立
ありふれた献立


「人間てさ、本当は被捕食者なんだ」
そう言ってKは笑った。

「突然、なに?」
「だってそうだろう。ほかの動物と比べても人間てさ、ツメもキバも無い」

「でも人間は道具を使うじゃないか。火が使えるのは人間だけだろ」
僕は食事の手を止めて、Kを見つめた。

皿の中央には、柔らかく煮込まれた肉のカタマリが、美しく盛りつけられている。料理の得意なKが、僕のためにと作ってくれた一皿だ。

Kは緑色のドロドロしたスープをスプーンですくった。菜食主義のKは、決して動物を食べない。

「人間が調理もせずに食えるのは、小魚程度だそうだよ。道具を使うということは、いわば進化による退化だと思わないか?」
Kが楽しげな調子で尋ねた。

あれは、何かを企んでいる時の目だ。僕は無言でKの様子を探った。

「そんな怖い顔をしなくても、他意なんてないさ」
「いいや。君がそんな話しをする時は、いつも必ず裏があるんだ」

「それより、今日の味付けはどうかな?先週君が生臭いと言っていたから、下拵えを変えたんだ」
Kはそう言って、スプーンで僕の皿を指した。スプーンに残っていた緑色の液体が、白いテーブルクロスに染みを作った。

「ああ、おいしいよ。とても柔らかい。ただ一つ、まあ強いて言うとしたら……乳臭いかな」
「なるほど。生臭いの次は、乳臭い、か」
「食材は、同じものかい?」

「ああ。今日のは腹にいた子供だけどね。丸々煮込んでみたんだ」
菜食主義とは言うものの、Kは動物を解体することに抵抗はないらしい。

僕は菜食主義ではないけれど、血を見るのは苦手だ。
Kは決して、調理室に僕を入れてはくれないが、動物が解体される現場に立ち入ろうとは思わない。
これもKの言う、進化による退化の一つかも知れないと僕は妙に納得した。

「……ところで、君の彼女。最近見かけないけど元気にしているかい?」
僕が尋ねると、Kは悲しそうな顔をして緑色のスープを飲む手を止めた。

Kの恋人はとても美しい女性だ。理屈屋で陰鬱なKには、もったいないほどの。なぜ彼女がKを恋人として選んだのか、未だに理解に苦しむときがある。それが僕だけの感情ではないのは、周知の事実だ。

「ああ、彼女ね」
「何か、あったのかい?」
「……うん。妊娠したんだ」
Kは僕と目を合わせることなく、苦い声で言った。

「妊娠?それは…おめでとう。じゃあ、彼女を見かけないのは、体の調子でも悪いのかい?」

僕は肉のカタマリをスプーンですくって、口へ入れた。
赤ワインで煮込まれたそれは、舌に乗せた瞬間に溶けるように消えた。

「……。彼女はもう、戻ってこない」
Kが冷たく言った。

「どうして?喧嘩でもしたのかい?彼女はあんなに君を愛していたじゃないか」
そう。とても美しいKの恋人は、K以外の男には決して笑いかけようともしない。Kだけが、彼女の世界の全てだった事を、僕は知っている。それはあの夜に。

「どうして」もう一度、僕は尋ねた。

「彼女の腹の子供は、僕の子供じゃないと言ったんだ」
Kが瞬きすら忘れたように、僕の目を見つめていた。背中に冷たい汗が流れた。
Kの恋人はとても美しい女性だった。彼女に憧れていたのは、僕だけではないはずだ。

僕は。
僕は、Kの。
僕は、Kの美しい恋人に。
僕は、Kの美しい恋人に、劣情を抱いていた。

あの晩は今日と同じく、糸のように細い月が出ていたことを思い出した。
あの晩のあの惨劇を見ていたのは、あの糸のように細いあの月だけだ。


「僕の子供ではないモノを身ごもってしまった。つまりは、そう言うことだろう。だから、彼女はもう戻ってはこない。それが彼女の望みだったのさ」
Kは悲しげに目を伏せて、緑色のスープをすくった。

僕はふうっとため息をついて、つとめて明るい声でKに尋ねた。
「そう言えば、まだ聞いていなかったが、この肉は一体何の肉だい?」
Kは真っ直ぐに僕の目を覗いた。

「いや、ね。週末に友人とレストランへ行ったんだ。そこはA5ランクの和牛が看板の店でね。それも旨かったんだが、君の料理ほどではなくてね。是非とも教えてくれないか」

「そうだな」刹那の沈黙の後、Kが答えた。
「あいにくレストランに出せるほど高級なものではないが。でも、簡単に知ったら、ツマラナいだろ?」
Kは口の端だけ上げて、嗤った。


気が付くと、皿の肉はもう跡形もなく消えていた。できればもう少し味わいたいところだ。
Kには「乳臭い」と言ってみたが、それは本心からではなく、僕の、Kに対する嫉妬心のようなものだった。
僕は皿の上に残ったソースをパンで拭って口に入れた。

「そんなに、気に入ったかい?」

「ああ、もちろん。また、ご馳走してくれないだろうか」
僕はすがりつくように即答していた。

「これは高級ではないが、とても珍しい食材でね。滅多なことでは手に入らないんだ」
「もう食べられないとなると、ことさら名残惜しいものだな」

「そんなに気に入ったのかい?」
「ああ」

Kの言葉が終わらないうちに、僕は返事をしていた。そんな僕をKが冷たい眼差しで見下ろした。
「まだ少し……」

「え?」
「まだ少し。冷蔵庫に入っているんだ。君が自分で取りに行くというのなら、僕は反対しない」

Kは緑のスープが残った皿を、手前に押した。
もう食べないという意思表示をする時の、Kの癖だった。

料理が残っていると聞いて、僕は椅子を倒して立ち上がった。心が浮き足立つ。
正直、調理室に入るのは気が引けたが、もう二度と食べられないかも知れないと思うと、多少のことには構っていられない。そう、それはあの晩と同じ。

「行くのかい?」とKが訊いた。

「もちろん!こんなチャンス、滅多にあるものじゃないだろ」
僕の目にKは映っていなかった。

「あの晩も、君は、そう、言ったんだね。細い細い月夜の晩に。だから彼女は……」
Kが表情のない声で言った。

Kの声は僕には届かない。僕はKに構わず、調理室の大きな冷蔵庫を開けた。


彼女はうっすらと唇を開けて、微笑んでいた。
K以外の男には決して笑いかけたりしない、美しいKの恋人の首だけが。

「人間は元来、被捕食者なんだ」と言ったKの声が、聞こえた気がした。
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