ヒミツの恋をはじめよう
【1】出会いは突然に
「今週もお疲れ様でした」
口には出さずに、心の中の自分と乾杯する。
キンキンに冷えたビールをごくごくと喉を鳴らしながら一気に流し込む。これが今の私にとって至福の時間だ。
空になったジョッキを片手に、すっかり顔なじみとなったマスターに「同じものを」と告げ、目の前に出されたお通しに手を伸ばす。私の好みに合う、カラメリゼされたアーモンドとカシューナッツを一粒ずつ大事に咀嚼しながら、ビールを待つ。
「はあ、幸せだな」
特別忙しいことなんてなかったのだが、五日も働いていると何か問題がなくても疲れが溜まってくるものである。そんな自分を労おうと、週末に予定が入っていない金曜日にはこうして一人で飲むことも板に付いてきたように思う。
「はい、さつきちゃん。お待たせ」
「マスター、ありがとう」
「よかったらこれも食べて。試作品で悪いんだけど」
「わあ、美味しそう!いただきます」
マスターが出してくれた“夏野菜のラタトゥイユ”をスプーンで掬い、口へ入れる。トマトの酸味が口の中いっぱいに広がり、噛み締めるごとに野菜とベーコンのうま味が溶け出し、口元が緩む。
「どう?美味しい?」
「すっごく美味しい!
「よかった。さつきちゃんの舌は信用できるから、その笑顔見たら自信が出たよ。今度お店で提供するから、楽しみにしてて」
「嬉しいな!バケットと一緒に食べるのも美味しそうだな~」
満足げな表情でキッチンへ戻っていくマスターを見届けながら、ラタトゥイユをつまみにビールを呷る。
飲食街の地下にひっそりと構えている『Bar“Cosmos”』は、最近私が訪れる癒しスポットである。淡いオレンジ色の照明が灯され、ダークブランで統一された店内には、ゆったりとした空気が流れている。店内の雰囲気も良く、品揃え豊富な酒類とマスターが作る料理に心を奪われ、時間がある日には一人でバーを訪れている。今ではすっかり常連客となり、マスターとも親しく会話ができるまでになった。
転職してから三年、ようやく仕事にも慣れ、心にも余裕が生まれた。
あんなことがなければ、バリバリ働くキャリアウーマンにでもなっていたかもしれないが、過去を振り返るのはもうやめた。これからの人生、悔いのないように生きなければと、気持ちのリセットもできている。
“もう傷つきたくない”
そう決めたあの日から、私は恋をするのをやめた。
私、藤森さつきは車両メーカーの営業事務として働いている。淡々と与えられた業務をこなし、定時には退社する、ごく普通の一般社員だ。業務内容も営業からの指示に合わせて書類を作成したり、電話や来客応対をする等、社内での作業がほとんどだ。
会社では極力目立たないように、見た目も振る舞いも業務のミスでさえも最小限に抑え、他人の目に留まらないよう“空気”であり続けるようにしている。
濃いめのブラウンに染まったセミロングは後ろで一つに結ぶ。縁が太めのボストン型メガネを掛け、化粧は最低限に。服装も周りに溶け込むようビジネスカジュアルを身に着けるが、色は落ち着いたネイビーやグレーを着回している。
我ながら擬態がようやく身についたなと、しみじみ思う。
ビールを片手にメニューを開き、次は何を食べようかなと眺めていたところ「隣、良いですか」と声が掛かる。
(他にも席、空いているんだけどな)
そう思いつつも、断ることすら面倒なので「どうぞ」と軽く会釈をして、再びメニューに目を向ける。次に注文する品を決め、すぐそばにいた店員に声を掛ける。
「エビとブロッコリーのアヒージョとバケットをお願いします」
「かしこまりました」
店員とも顔なじみである為、注文しながら目配せする。彼は私の視線を感じ取った後、小さく頷き「マスターに声掛けてきますね」と私にだけ聞こえるようにこっそり告げ、店の奥へと入って行った。
隣に座った男性も他の店員にオーダーしていたようで、キッチンから出てきたマスターが彼の前にビールを置く。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
横目で彼の方を見ると、目の前に置かれたジョッキを手に取り、喉を鳴らしながら黄金色の液体を流し込んでいた。
「いい飲みっぷりですね」
マスターが笑顔で彼に声を掛ける。
「ビール大好きなんです。ただ、そんなに強くないのでたくさんは飲めませんが」
ははは、と笑いながら口の周りに付いた泡を拭っている彼の声に、聞き覚えがあるような気がしてならない。記憶を辿っているところで、再び彼に話し掛けられ、驚きのあまりびくっと身体が跳ねてしまった。
「よかったら、乾杯しませんか?」
私の反応に気づいていないのか、彼は身体をこちらに向け、持っていたジョッキを私のジョッキに近づけた。普段ならばそういった行為を無視できるはずが、今起きている状況に頭がついていかず、ついジョッキを持ち上げてしまう。
「かんぱーい!」
「・・・かんぱい」
カチン、とジョッキ同士が重なる音が鳴った後、彼は笑顔で再びジョッキに口をつけ、ぐびぐびとビールを飲んでいる。そんな彼をよそに、私は記憶の中から彼の存在を思い出し、ビールを飲んでいる場合ではないとジョッキを口に当て飲んだふりをする。
(嘘でしょ)
私の勘違いかもしれないと思い、ビールを呷っている彼を横目で見る。八割程疑っていた心が確信に変わり、隣に座ってもいいと了承したことを後悔する。頭を抱えそうになりながらも、ぐっとそれを堪えて下を向き、バクバクと落ち着かない心臓を静めようと目を閉じる。
私は彼を知っている。知りたくなくても、勝手に情報が入ってきてしまうのだ。
難波清人、三十歳独身。私より二つ上の彼は艶やかな黒髪を短く切り揃えてあり、清潔感に溢れている。平均よりも奇麗に流れる鼻筋と健康的な色をした唇、きらきらと輝いた瞳に、見上げるほどの背の高さで周りの女性を魅了している。
なぜ私がそんなことを知っているのかというと、彼は私と同じ会社で働いている所謂“営業部のエース”だからだ。その見た目と才能から社内で彼を狙っている女性は多いのだが、彼は自らが告白した相手としか付き合わないともっぱらの噂だ。
(例え彼が私のことを知らなくても、ここにいてはまずい!)
こっそり周りを見渡すも、彼は一人で来店したようで、知っている顔はいなかった。
それでもこの場を離れなければと慌てて席を立とうとするも、それを阻止するかのようなタイミングで先程注文した料理が運ばれてきた。
「エビとブロッコリーのアヒージョ、お待たせしました」
爽やかな笑顔で告げる店員に、蚊の鳴くような声で「ありがとう」を告げる。私の表情を見た後、首を傾げて不思議そうな表情を見せた店員の新太くんに「大丈夫」と薄い笑みを返し、ほんの少しだけ浮いていたお尻を座席に戻す。
(これを食べたら、さっさと退散しよう)
冷菜を頼めばよかったと一人後悔し、ふうふうしながらエビを口に運ぶ。いつもであれば、ぷりぷりとしたエビに心を躍らせながら白ワインを嗜むところだが、今はそれどころではない。
「それ、美味しいですか?」
私の心なんて露知らず、彼は声を弾ませながら私に問い掛ける。
「美味しいですよ」
彼の方は向かず、つっけんどんに答えを返す。「お願いだから話し掛けないで」と言ってやりたいところだが、彼に私が私であることを知られては困る為、必要最低限の受け答えに留める。
「じゃあ、俺は違うアヒージョを頼むことにします」
そんな私の態度を気にしていないのか、彼は店員に「砂肝とマッシュルームのアヒージョ」を注文した後、三度「あの」と私に話を切り出した瞬間、マスターがそれを遮るように彼へ話し掛けた。
「お客様、申し訳ありません。当店はナンパ行為を禁止としているんです」
「あ、そうなんですね」
何の前触れもなく言われた台詞に、少し驚いた表情をした後、彼は「すみません」とこちらに向かって彼が頭を下げた。
以前、今日と同じように一人で飲んでいたところ、執拗に迫ってくる男性客がいた。それ以来マスターは私へ不用意に話し掛けている人物を警戒してくれており、私もその厚意に甘えて、何かが起きそうな時にはマスターを呼ぶようにしていた。
「あまりにもお奇麗だったので、ついつい話し掛けてしまいました」
「いえ、そんな。お気になさらず」
これでようやく解放されると思いきや、彼の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。
「俺、あなたに一目惚れしてしまったみたいです。ナンパとか、そういう軽いノリではなく、真剣交際の申し込みなら許されますか?」
「・・・は?」
何を言われているか分からず、私は首を傾げながら眉をひそめる。マスターは「それはまた突然ですね」と苦笑いしながら、グラスを磨き始めた。
(ちょっとマスター!なんでグラス磨き始めちゃったの?・・・でも待てよ。彼は私の正体に気づいていないということ?)
私の正体が気づかれていないとしても、彼の告白に対しての返事は勿論“ノー”だ。出会ったばかりで得体も知れない女性に真剣交際を申し込むなんて、信じられるわけがない。逆もまた然り。
私は彼に気づかれないよう深呼吸し、慌てていた心臓に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせ、ゆっくりと口を開く。
「せっかくのお言葉ですが、すみません」
「・・・ですよね。突然こんなこと言われても困りますよね!酔っ払いの戯言だと思って、聞き流してください!」
少し肩を落とした彼がジョッキに残っていたビールを飲み干し、マスターにおかわりを告げる。
(とりあえず、よかった)
ひとまず自分の正体が見破られていないことに安堵する。
それでも隣にいる以上、何かの拍子でバレてしまうことを危惧し、早々にこの場から退散しようと心に決め、アヒージョとビールを胃に流し込むことに専念した。
食器の全てが空になり、マスターに帰る旨を告げ、お会計を済ませる。
「お先に失礼します」
無言で退散するわけにもいかず、突然の告白から静かに独りで飲んでいた彼にそう告げ、軽く会釈をする。
玄関ドアに向かって歩き出し、ドアノブに手を掛けたところで、後ろから駆けてきた彼に「あのっ」と呼び止められてしまった。
「・・・なんですか?」
ゆっくりと彼の方へ振り向くと、先程見た時よりも少し頬が赤くなっていた。
呼び止められてから暫し沈黙が流れ、どうしたのだろうかと首を傾げた時、目線を下げていた彼が私と目を合わせ、意を決したかのように声を張り上げた。
「やっぱり俺、あなたのことを諦められません!素性も知らない男から突然告白されて困っているのは承知です。俺を知ってもらう為に、今度一緒にデートしていただけませんか!」
彼は勢いよく私に手を差し出し、握手を促そうとしている。
(勘弁してよ・・・)
さっき断ったでしょ!と言ってしまいたいところだが、店内にいた客が野次馬となり、こちらの様子をチラチラと見ている為、なかなか断れる雰囲気にない。
私はドアに向き直り「外で話しましょう」と彼の掌ではなく腕を引っ張り、店外へ出ることにした。
階段を上り地上へ出たところで掴んでいた手を放し、彼の方を向く。
「あんなところで、困ります」
「あ、それは、すみません」
「それに、さっき断りましたよね?聞き流してくださいと言ったのは嘘だったんですか?」
「嘘じゃないです!あの時はそれがいいと思って・・・。でも、あんな風に突然告白した俺に対して、あなたはわざわざ帰る挨拶をしてくれた。だから俺は気遣ってくれるあなたとの出会いを忘れたくない。これっきりにしたくないんです!」
「・・・」
私が彼のことを何も知らない、私自身にも何も隠し事がなかったら、きっと喜んで彼からの告白を受けるだろう。見た目が抜群に良い彼を前にして、告白を断る人がいるのだろうかとも思うが、残念ながらそれは私に当て嵌まる。
「本当にだめですか?」
お酒の影響もあって瞳が潤んでいるのか、彼はいつも以上にきらきらとした眼差しでこちらを見ている。
(くっ・・・イケメンだからって屈しないんだから!)
「すみません。今は誰ともお付き合いをしたくないんです」
「“今”は?」
「はい」
「ということは、まだ俺にも望みがあるってことですよね!」
「・・・は?」
正直に交際意欲は一切ない旨を告げれば、きっと諦めてくれるだろうと思った私が馬鹿だった。
「“今は”っていうことは、今後誰かと付き合うかもしれない。それが俺かもしれないってことじゃないですか!」
(む、無駄にポジティブ!)
驚きのあまり返す言葉が見つからず、呆気にとられて彼に目線を向けると、わくわくした表情で再び私の前に手を差し出してきた。
ちらほら通りを歩く人たちがこちらに注目しているのが分かり、早くこの場から去りたいと思うのに彼はそれを許してくれない。
「お友だちからでいいので、よろしくお願いします!」
こちらを見ていた通行人が「おおっ」と沸くのが分かり、彼と一緒に私の反応を伺っている。
(せっかく外にまで出てきたのに、断れないじゃない・・・!)
片手で額を押さえながら考え混んでいると、外野から「早く答えてやれよ!」と野次が飛んでくる。
(これだから酔っ払いは!)
半ば諦めて額に当てていた手を下ろし、嘆息しながら「一回だけですよ」とだけ答え、彼の手を取ると周りから「おめでとう!」と祝福の声が聞こえてきた。
「ありがとうございます!!」
私に対しての言葉なのか、周りに対しての言葉なのか、そんなのはどちらでもいい。
(デートなんて、すっぽかせばいいんだから)
その場しのぎの嘘だったとは知らずに舞い上がっている彼を見て、少し心臓を掴まれた気がしたが、気のせいだと思ってそれを無視した。
その後、私は彼に促されるまま連絡先を交換し、来週の土曜日にデートの約束を交わして、帰路についたのだった。
口には出さずに、心の中の自分と乾杯する。
キンキンに冷えたビールをごくごくと喉を鳴らしながら一気に流し込む。これが今の私にとって至福の時間だ。
空になったジョッキを片手に、すっかり顔なじみとなったマスターに「同じものを」と告げ、目の前に出されたお通しに手を伸ばす。私の好みに合う、カラメリゼされたアーモンドとカシューナッツを一粒ずつ大事に咀嚼しながら、ビールを待つ。
「はあ、幸せだな」
特別忙しいことなんてなかったのだが、五日も働いていると何か問題がなくても疲れが溜まってくるものである。そんな自分を労おうと、週末に予定が入っていない金曜日にはこうして一人で飲むことも板に付いてきたように思う。
「はい、さつきちゃん。お待たせ」
「マスター、ありがとう」
「よかったらこれも食べて。試作品で悪いんだけど」
「わあ、美味しそう!いただきます」
マスターが出してくれた“夏野菜のラタトゥイユ”をスプーンで掬い、口へ入れる。トマトの酸味が口の中いっぱいに広がり、噛み締めるごとに野菜とベーコンのうま味が溶け出し、口元が緩む。
「どう?美味しい?」
「すっごく美味しい!
「よかった。さつきちゃんの舌は信用できるから、その笑顔見たら自信が出たよ。今度お店で提供するから、楽しみにしてて」
「嬉しいな!バケットと一緒に食べるのも美味しそうだな~」
満足げな表情でキッチンへ戻っていくマスターを見届けながら、ラタトゥイユをつまみにビールを呷る。
飲食街の地下にひっそりと構えている『Bar“Cosmos”』は、最近私が訪れる癒しスポットである。淡いオレンジ色の照明が灯され、ダークブランで統一された店内には、ゆったりとした空気が流れている。店内の雰囲気も良く、品揃え豊富な酒類とマスターが作る料理に心を奪われ、時間がある日には一人でバーを訪れている。今ではすっかり常連客となり、マスターとも親しく会話ができるまでになった。
転職してから三年、ようやく仕事にも慣れ、心にも余裕が生まれた。
あんなことがなければ、バリバリ働くキャリアウーマンにでもなっていたかもしれないが、過去を振り返るのはもうやめた。これからの人生、悔いのないように生きなければと、気持ちのリセットもできている。
“もう傷つきたくない”
そう決めたあの日から、私は恋をするのをやめた。
私、藤森さつきは車両メーカーの営業事務として働いている。淡々と与えられた業務をこなし、定時には退社する、ごく普通の一般社員だ。業務内容も営業からの指示に合わせて書類を作成したり、電話や来客応対をする等、社内での作業がほとんどだ。
会社では極力目立たないように、見た目も振る舞いも業務のミスでさえも最小限に抑え、他人の目に留まらないよう“空気”であり続けるようにしている。
濃いめのブラウンに染まったセミロングは後ろで一つに結ぶ。縁が太めのボストン型メガネを掛け、化粧は最低限に。服装も周りに溶け込むようビジネスカジュアルを身に着けるが、色は落ち着いたネイビーやグレーを着回している。
我ながら擬態がようやく身についたなと、しみじみ思う。
ビールを片手にメニューを開き、次は何を食べようかなと眺めていたところ「隣、良いですか」と声が掛かる。
(他にも席、空いているんだけどな)
そう思いつつも、断ることすら面倒なので「どうぞ」と軽く会釈をして、再びメニューに目を向ける。次に注文する品を決め、すぐそばにいた店員に声を掛ける。
「エビとブロッコリーのアヒージョとバケットをお願いします」
「かしこまりました」
店員とも顔なじみである為、注文しながら目配せする。彼は私の視線を感じ取った後、小さく頷き「マスターに声掛けてきますね」と私にだけ聞こえるようにこっそり告げ、店の奥へと入って行った。
隣に座った男性も他の店員にオーダーしていたようで、キッチンから出てきたマスターが彼の前にビールを置く。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
横目で彼の方を見ると、目の前に置かれたジョッキを手に取り、喉を鳴らしながら黄金色の液体を流し込んでいた。
「いい飲みっぷりですね」
マスターが笑顔で彼に声を掛ける。
「ビール大好きなんです。ただ、そんなに強くないのでたくさんは飲めませんが」
ははは、と笑いながら口の周りに付いた泡を拭っている彼の声に、聞き覚えがあるような気がしてならない。記憶を辿っているところで、再び彼に話し掛けられ、驚きのあまりびくっと身体が跳ねてしまった。
「よかったら、乾杯しませんか?」
私の反応に気づいていないのか、彼は身体をこちらに向け、持っていたジョッキを私のジョッキに近づけた。普段ならばそういった行為を無視できるはずが、今起きている状況に頭がついていかず、ついジョッキを持ち上げてしまう。
「かんぱーい!」
「・・・かんぱい」
カチン、とジョッキ同士が重なる音が鳴った後、彼は笑顔で再びジョッキに口をつけ、ぐびぐびとビールを飲んでいる。そんな彼をよそに、私は記憶の中から彼の存在を思い出し、ビールを飲んでいる場合ではないとジョッキを口に当て飲んだふりをする。
(嘘でしょ)
私の勘違いかもしれないと思い、ビールを呷っている彼を横目で見る。八割程疑っていた心が確信に変わり、隣に座ってもいいと了承したことを後悔する。頭を抱えそうになりながらも、ぐっとそれを堪えて下を向き、バクバクと落ち着かない心臓を静めようと目を閉じる。
私は彼を知っている。知りたくなくても、勝手に情報が入ってきてしまうのだ。
難波清人、三十歳独身。私より二つ上の彼は艶やかな黒髪を短く切り揃えてあり、清潔感に溢れている。平均よりも奇麗に流れる鼻筋と健康的な色をした唇、きらきらと輝いた瞳に、見上げるほどの背の高さで周りの女性を魅了している。
なぜ私がそんなことを知っているのかというと、彼は私と同じ会社で働いている所謂“営業部のエース”だからだ。その見た目と才能から社内で彼を狙っている女性は多いのだが、彼は自らが告白した相手としか付き合わないともっぱらの噂だ。
(例え彼が私のことを知らなくても、ここにいてはまずい!)
こっそり周りを見渡すも、彼は一人で来店したようで、知っている顔はいなかった。
それでもこの場を離れなければと慌てて席を立とうとするも、それを阻止するかのようなタイミングで先程注文した料理が運ばれてきた。
「エビとブロッコリーのアヒージョ、お待たせしました」
爽やかな笑顔で告げる店員に、蚊の鳴くような声で「ありがとう」を告げる。私の表情を見た後、首を傾げて不思議そうな表情を見せた店員の新太くんに「大丈夫」と薄い笑みを返し、ほんの少しだけ浮いていたお尻を座席に戻す。
(これを食べたら、さっさと退散しよう)
冷菜を頼めばよかったと一人後悔し、ふうふうしながらエビを口に運ぶ。いつもであれば、ぷりぷりとしたエビに心を躍らせながら白ワインを嗜むところだが、今はそれどころではない。
「それ、美味しいですか?」
私の心なんて露知らず、彼は声を弾ませながら私に問い掛ける。
「美味しいですよ」
彼の方は向かず、つっけんどんに答えを返す。「お願いだから話し掛けないで」と言ってやりたいところだが、彼に私が私であることを知られては困る為、必要最低限の受け答えに留める。
「じゃあ、俺は違うアヒージョを頼むことにします」
そんな私の態度を気にしていないのか、彼は店員に「砂肝とマッシュルームのアヒージョ」を注文した後、三度「あの」と私に話を切り出した瞬間、マスターがそれを遮るように彼へ話し掛けた。
「お客様、申し訳ありません。当店はナンパ行為を禁止としているんです」
「あ、そうなんですね」
何の前触れもなく言われた台詞に、少し驚いた表情をした後、彼は「すみません」とこちらに向かって彼が頭を下げた。
以前、今日と同じように一人で飲んでいたところ、執拗に迫ってくる男性客がいた。それ以来マスターは私へ不用意に話し掛けている人物を警戒してくれており、私もその厚意に甘えて、何かが起きそうな時にはマスターを呼ぶようにしていた。
「あまりにもお奇麗だったので、ついつい話し掛けてしまいました」
「いえ、そんな。お気になさらず」
これでようやく解放されると思いきや、彼の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。
「俺、あなたに一目惚れしてしまったみたいです。ナンパとか、そういう軽いノリではなく、真剣交際の申し込みなら許されますか?」
「・・・は?」
何を言われているか分からず、私は首を傾げながら眉をひそめる。マスターは「それはまた突然ですね」と苦笑いしながら、グラスを磨き始めた。
(ちょっとマスター!なんでグラス磨き始めちゃったの?・・・でも待てよ。彼は私の正体に気づいていないということ?)
私の正体が気づかれていないとしても、彼の告白に対しての返事は勿論“ノー”だ。出会ったばかりで得体も知れない女性に真剣交際を申し込むなんて、信じられるわけがない。逆もまた然り。
私は彼に気づかれないよう深呼吸し、慌てていた心臓に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせ、ゆっくりと口を開く。
「せっかくのお言葉ですが、すみません」
「・・・ですよね。突然こんなこと言われても困りますよね!酔っ払いの戯言だと思って、聞き流してください!」
少し肩を落とした彼がジョッキに残っていたビールを飲み干し、マスターにおかわりを告げる。
(とりあえず、よかった)
ひとまず自分の正体が見破られていないことに安堵する。
それでも隣にいる以上、何かの拍子でバレてしまうことを危惧し、早々にこの場から退散しようと心に決め、アヒージョとビールを胃に流し込むことに専念した。
食器の全てが空になり、マスターに帰る旨を告げ、お会計を済ませる。
「お先に失礼します」
無言で退散するわけにもいかず、突然の告白から静かに独りで飲んでいた彼にそう告げ、軽く会釈をする。
玄関ドアに向かって歩き出し、ドアノブに手を掛けたところで、後ろから駆けてきた彼に「あのっ」と呼び止められてしまった。
「・・・なんですか?」
ゆっくりと彼の方へ振り向くと、先程見た時よりも少し頬が赤くなっていた。
呼び止められてから暫し沈黙が流れ、どうしたのだろうかと首を傾げた時、目線を下げていた彼が私と目を合わせ、意を決したかのように声を張り上げた。
「やっぱり俺、あなたのことを諦められません!素性も知らない男から突然告白されて困っているのは承知です。俺を知ってもらう為に、今度一緒にデートしていただけませんか!」
彼は勢いよく私に手を差し出し、握手を促そうとしている。
(勘弁してよ・・・)
さっき断ったでしょ!と言ってしまいたいところだが、店内にいた客が野次馬となり、こちらの様子をチラチラと見ている為、なかなか断れる雰囲気にない。
私はドアに向き直り「外で話しましょう」と彼の掌ではなく腕を引っ張り、店外へ出ることにした。
階段を上り地上へ出たところで掴んでいた手を放し、彼の方を向く。
「あんなところで、困ります」
「あ、それは、すみません」
「それに、さっき断りましたよね?聞き流してくださいと言ったのは嘘だったんですか?」
「嘘じゃないです!あの時はそれがいいと思って・・・。でも、あんな風に突然告白した俺に対して、あなたはわざわざ帰る挨拶をしてくれた。だから俺は気遣ってくれるあなたとの出会いを忘れたくない。これっきりにしたくないんです!」
「・・・」
私が彼のことを何も知らない、私自身にも何も隠し事がなかったら、きっと喜んで彼からの告白を受けるだろう。見た目が抜群に良い彼を前にして、告白を断る人がいるのだろうかとも思うが、残念ながらそれは私に当て嵌まる。
「本当にだめですか?」
お酒の影響もあって瞳が潤んでいるのか、彼はいつも以上にきらきらとした眼差しでこちらを見ている。
(くっ・・・イケメンだからって屈しないんだから!)
「すみません。今は誰ともお付き合いをしたくないんです」
「“今”は?」
「はい」
「ということは、まだ俺にも望みがあるってことですよね!」
「・・・は?」
正直に交際意欲は一切ない旨を告げれば、きっと諦めてくれるだろうと思った私が馬鹿だった。
「“今は”っていうことは、今後誰かと付き合うかもしれない。それが俺かもしれないってことじゃないですか!」
(む、無駄にポジティブ!)
驚きのあまり返す言葉が見つからず、呆気にとられて彼に目線を向けると、わくわくした表情で再び私の前に手を差し出してきた。
ちらほら通りを歩く人たちがこちらに注目しているのが分かり、早くこの場から去りたいと思うのに彼はそれを許してくれない。
「お友だちからでいいので、よろしくお願いします!」
こちらを見ていた通行人が「おおっ」と沸くのが分かり、彼と一緒に私の反応を伺っている。
(せっかく外にまで出てきたのに、断れないじゃない・・・!)
片手で額を押さえながら考え混んでいると、外野から「早く答えてやれよ!」と野次が飛んでくる。
(これだから酔っ払いは!)
半ば諦めて額に当てていた手を下ろし、嘆息しながら「一回だけですよ」とだけ答え、彼の手を取ると周りから「おめでとう!」と祝福の声が聞こえてきた。
「ありがとうございます!!」
私に対しての言葉なのか、周りに対しての言葉なのか、そんなのはどちらでもいい。
(デートなんて、すっぽかせばいいんだから)
その場しのぎの嘘だったとは知らずに舞い上がっている彼を見て、少し心臓を掴まれた気がしたが、気のせいだと思ってそれを無視した。
その後、私は彼に促されるまま連絡先を交換し、来週の土曜日にデートの約束を交わして、帰路についたのだった。
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