ヒミツの恋をはじめよう
 どうにか恭司に頼み込んで彼女の名前を聞いた俺は、その響きに心当たりがあるような気がした。
(そういえば、小柴さんの下についてる子の名前がそうだったような)
 飲み会がお開きになり、自宅へ帰る途中で彼女の姿を思い浮かべるも、その顔をはっきりと思い出せなかった。
 恭司に「どこに勤めてるのか」と聞いたところで、きっと教えてくれはしないだろうと一人頷く。同じ会社で働いているのであれば、いつかきっと巡り合えるだろうと、酔った頭で考えながら眠りについた。

 週明け。いつもより早く出社して社内を一周してみるも、一目惚れした彼女は見つからない。そもそも、あんなにも美しい女性がいるのであれば、俺よりも先に周りが騒ぎ立てるはずだ。
 やはり自分の記憶違いだったかと思いながら自席へ戻りつつ、営業部の島一体を見渡すと、小柴さんが事務員と話をしているのが目に入った。
(あ・・・!)
 話が終わった頃合いを見計らい、小柴さんがデスクへ戻ったところで席を立つ。
「小柴さん、お疲れさまです。少しお時間大丈夫ですか?」
「難波くんお疲れさま。少しなら大丈夫よ、どうかした?」
「先週お願いされていた資料をまとめたので持ってきました。あとで確認をお願いします」
「ありがとう。忙しいのにごめんなさいね」
「そんな、忙しいのは小柴さんでしょう。他に何かやることありますか?」
「本当気が利くわね。お言葉に甘えて申し訳ないんだけど、その資料彼女にも渡しておいてくれない?」
 小柴さんが向けた手の先を見ると、先程まで話していた彼女を示していた。
 まさか、こんなにも直ぐのタイミングで彼女に接触できると思っておらず、わずかに目を見開いてしまう。その様子が小柴さんに知られないよう平静を装いながら、彼女の名前を告げ、確かめる。
「藤森、さつきさんですか?」
「そう、藤森さんよ。なんだ、難波くん知っていたのね。彼女にその資料のコピーを渡しておいてもらえる?私これから会議で時間がなくて」
「はい、それくらいお安い御用です」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
 小柴さんは慌てて席を立ち上がり、タブレットを片手に持って、急ぎ足で部屋を後にした。
 俺が名前を言って小柴さんが否定しなかった。ということは、彼女の名前は“藤森さつき”で間違いない。
 わずか二日ばかりで彼女に近づけるとは思わず、緊張で手が震える。コピー機が紙を吐き出す様を見ながら、心を落ち着けようと深呼吸をして心を落ち着かせる。
 出来上がったばかりの資料を持ち、彼女の元へ歩き出すも、気持ちが急いてしまい、いささか早足気味なっている自分に笑いが込み上げる。彼女の席へあと数歩というところで再び深呼吸して息を整え、辿り着いたその時、俺は意を決して彼女の名前を呼んだ。
「藤森さん」
「はい」
 キーボードを叩いている手を止め、彼女はこちらを向いた。なぜ声を掛けられたか分からないといった表情を見せる彼女に、逸っていた鼓動が落ち着いていくのが分かる。
「小柴さんに話したら、藤森さんにも渡しておいてって頼まれて。はい、どうぞ」
 資料の表題を見るなり、彼女は納得したようで「ありがとうございます」と言って、それを受け取った。
「あの」
「はい?」
 まだ何か用があるのかとも言いたげな表情を見せた彼女は、首を傾げて俺を見ており、徐々に眉間の皺が寄っていくのが分かった。
 それ以上は何も言えないと判断し「いえ、なんでも。では失礼します」とだけ伝えると、彼女は「お疲れさまです」と言って身体を元の位置に戻し、再びキーボードを叩き始めた。
 自席へと戻りながら、先程話した彼女のことを考える。
 間近で見た彼女は先日目にした“藤森さつき”とは別人のように思えたが、一瞬すれ違った記憶の中に存在する彼女を美化しているだけなのかもしれないと思い直す。
(同姓同名も、そうそうあることじゃないしな)
 ともすれば、世の中には化粧の仕方や服装でガラッと雰囲気が変わる人間がいるので、彼女もそうなのかもしれないと思案するも、頭の中には疑問が湧いてくる。誰をも振り向かせる彼女がなぜそれを隠しているのか。そうしなければならない理由があるのかが気になった。
(彼女も俺と同じなんだろうか)
 自分自身も休日は人目に付かないよう、己の姿を隠して生活している。もし彼女が同じ悩みを持っているのだとしたら、互いの秘密を共有することで、彼女との距離が近づけるのではないか。
(まずは本人かどうかを確認しないことには始まらない)
 彼女本人へ直接聞いてはただのストーカーになると思い、恭司へメッセージを送ることにした。
『藤森さんて、俺と同じ会社だったんだな。だから、俺に彼女の名前を教えたくなかったのか?あ、そうだ。彼女に恭司の名前言って近づいてもいい?』
『絶対にやめろ。そんなことしたら俺はお前と縁を切る』
 届いた返信を見て、同じ会社の“藤森さつき”が一目惚れの相手だったと確信し、窓の外を見る振りで、彼女の横顔に想いを馳せた。
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