玻璃の館

玻璃の館

 クローディアはガラスの小瓶一つと引き換えに売られた。
 小指ほどの透明な瓶の中には、「天使の口づけ」と呼ばれる猛毒が入っていた。一滴で人の命を奪うことができ、また一滴で人の人生を買うことができた。
「妻を愛しています」
 昼下がり、カーテンが潮風と遊んでいた。窓の向こうにきらめく青い海がのぞく一室で、ダミアンはいつものように商談に応じていた。
「妻は良き友であり、良き母です。私の営む小さな仕立屋が王家の御用達にまでなったのは妻のおかげです。一人の息子と二人の娘にも恵まれました。妻がいなければ、私は死んだように人生を送っていたでしょう」
 愛を語る男はもう若くはないが、言葉の熱は恋に落ちた少年のようだ。
 水の街と呼ばれるここの住民と商談をするとき、ダミアンは劇場で舞台を見ているような気分になる。彼らは情熱的で、街を囲む海が時折暴れるように、何か大きな感情に押し流されてダミアンの元にやって来る。
「……弟と抱き合い寝室に消えた姿を見ても、今も妻を愛しています」
 男は椅子に身を沈めて沈黙した。ダミアンはその様を、楽しむでもなくただ見ていた。
 潮の香りが喉をくすぐる。運河の舟に乗って、貴婦人たちがはしゃぐ声が聞こえていた。
「一瓶でよろしいでしょうか」
 ダミアンは確認のために問いかけた。
 差し出す財が多ければ、二瓶でも、それ以上でも、ダミアンには応じる用意がある。
「はい」
 もっとも天使の口づけを求める人たちは、およそ一瓶しか求めないが。
「では、対価にはあなたの仕立てた衣装をいただきましょう。今夜はこちらでごゆっくりお過ごしください」
 ダミアンは侍女に紅茶を給仕させて、それが契約の証となった。



 運河にかかる橋を歩いて渡りながら、ダミアンは商館から居館への帰路を辿っていた。
 街の人々はダミアンの居館のことを、玻璃の館と呼ぶらしい。
 表向き、ダミアンは硝子細工の商人だ。けれどあまりに栄え、真に何を売っているかは硝子のように中が透けて見える。そういう意図なのだろう。
 ダミアンはそれほど硝子の中身を知っているわけではない。毒は居館で栽培する果実がほんのわずかに実るときに摘んで、絞っている。それはいくら他人に任せようとしてもできなかったが、書き記すことも説明もできないことを知っているとはいえない。
 そういえば今日も、誰を殺めるのか訊かなかった。ダミアンは運河から上る柔らかい水音を聞きながら思う。
 毒を売るのは父から受け継いだ生業だからであって、人が死ぬのを楽しむ心からではない。
 ……本当だろうか。ふと口元に上った笑みは、一瞬の後に消える。
「クローディア!」
 橋の上でうずくまる少女をみつけて、ダミアンは慌てて駆け寄る。
「どうしてこんなところまで。何かあったのか?」
 妻のクローディアは体が弱く、実家にいた頃は屋敷の外に出たこともなかった。
 ダミアンが声をかけると、返って来たのはクローディアの邪気のない笑顔だった。
「ダミアンを迎えにきたの。お腹がすく頃でしょう?」
 彼女が十八になりながら子どものようにあどけないのは、半分はダミアンのせいだろう。
 ダミアンは彼女が十五のときに妻に迎えたが、公に知らせることはなく、また彼女を居館から出したこともない。
 ダミアンはクローディアの頬に手を触れて言う。
「だめだろう、クローディア? 私と一緒でないと館からは出ないと約束したね?」
 子どもを叱るような言葉が、彼女には何より効き目がある。案の定クローディアは瞳を揺らしてダミアンを見上げた。
「私は悪魔の子だから?」
 ダミアンは首を横に振って、クローディアの手を包み込んだ。
「君は天使だよ」
 ダミアンはクローディアの両手を取って立たせる。クローディアは手をつないだまま、ダミアンをみつめた。
 宵闇の迫る空の下、飴色の髪の少女の手を取って口づけた。
 ダミアンがまだ少年で、恋に囚われた日から続く儀式だった。




 クローディアが十五のとき、ダミアンは王都を追われた伯爵の館を訪れた。
 この地で人々が住んでいるような明るい色の屋根の家ではなく、針のように鉄の細工が張り巡らされた、牢獄じみた屋敷だった。
 クローディアの父である伯爵は、妻が下男と駆け落ちした後、娘のクローディアを偏愛しているという噂だった。
 伯爵がクローディアと抱き合い寝室に消える姿を目にしたと、誰が語ったかわからない噂が水の街にまで届いていた。
「ダミアン……今日はもう」
 ダミアンが伯爵の館を訪れたとき、伯爵はひどくやつれた様で、ダミアンを温室に連れて行った。
 私の宝物を見せよう。伯爵はそう言って、クローディアを呼んだ。
 硝子ごしにクローディアは伯爵に気づいたようだった。
 飴色の髪を散らして彼女があどけなく笑ったその先は、父である伯爵だった。当たり前のことに、ダミアンは嫉妬に胸が焦げるようだった。 
「どうして? もっと奥まで入りたい」
 クローディアが身をよじり震えるとき、余すところなくそれを感じていたい。彼女と交わるたびに貪欲になる自分がいる。
 シーツの中でクローディアの足と自らの足をからませると、彼女の中が少し動く。そんな小さな反応さえも愛おしい。
「どうしよう、どうしよう……」
「クローディア?」
 彼女が言いよどんでいる気配がした。ダミアンは動きを止めて、クローディアのこぼれ髪をかきあげる。
 夫婦となって三年、すぐに果てるだけの時を求めているわけではない。一度引くことも考えたが、クローディアの手はダミアンの背に回ったままだった。
「怒らないで……」
 ダミアンが首を傾げると、彼女はためらいながらその事実を口にした。
「……赤ちゃんができたの」
 彼女がそう打ち明けたとき、ダミアンは伯爵の葬儀の日を思い出した。
 宵闇の迫る空の下、棺にすがって泣く焦がれた人を、ダミアンは後ろからほほえんでみつめていた。
 自分が売った毒が誰に使われたのか、初めて知った。人の命が奪われたのと引き換えに手にした財を、このときほど喜んだ日はなかった。
「うれしいよ、クローディア」
 現在のダミアンはクローディアを正面から抱きしめ、その頬に自らの頬を寄せる。
「ほんと……に?」
「ああ。男の子かな、女の子かな。いろいろ揃えなければな」
 伯爵はクローディアを、悪魔の子と言い聞かせたと話していた。愛しているのは父である私だけだと教え込んだのだと。
 それは違うと、ダミアンは思う。悪魔とは、自分のような者を指すのだ。
「そうだ。贈り物があるんだ。王妃様も身に着ける衣装だよ」
 ダミアンは弾んだ声で告げて笑う。
「愛しているよ、クローディア。ずっと……ずっと」
 涙の残る頬に口づけて、ダミアンは天使の身深くに体を埋めていった。
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