きみがため
「“君がため”っていうのは、“君のために”って意味だよ」

「ふうん」

女の子はふと静かになり、和歌を黙って見ている。

柔らかな風がそっと彼女のサラサラの髪を撫でる。

呼応するように、頭上高くにそびえる樫の葉が、サワサワと優しい音をたてた。

――君がため。

幼い彼女なりに、その和歌に込められた強い想いを、感じ取っていたのかもしれない。

すると女の子は、突然パッと顔を上げて、「そうだ、“君がためゲーム”をしよう!」と言った。

「君がためゲーム? なんだそれ」

「古今東西みたいなかんじで、相手のためにできること、順番に言い合いっこするの」

「……ふーん」

暇だし、まあいいか。

僕らは、相手のためにできることを想像して、ひたすら言い合った。

君のために、歌を歌う。

君のために、空を飛ぶ。

君のために、夢を見る。
 
そのうち、それはとてもいい言葉のように思えてきた。

誰かのためになにかをするなんて、考えたこともない。

自分は、自分のためにしか生きれないと思っていた。

ああそうか、と納得する。

だから、藤原義孝の和歌は、悲愴感のなかに、あたたかみを感じるんだ。

誰かのために生きたいと思った彼は、短い生涯ながらも、きっと幸福だったから。

「真菜―っ!」

遠くで声がした。多分、母親が女の子を探しているのだろう。

はーいと返事をして、彼女が立ち上がる。 

「さようなら、行くね」

初めは鬱陶しいと感じていたのに、小さな彼女が離れてしまうのを、そのとき無性に寂しく思った。

最後に女の子は、世界が霞んで見えるほどの、まばゆい笑顔を僕に向けた。

「お兄さんの言葉、私好きだよ。また聞かせてね」

小さな彼女のその言葉は、樫の木の葉音とともに、いつまでも僕の心に残っていた。
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