きみがため
窓辺で本に目を落としている小瀬川くんを、ちらりと盗み見る。

寡黙で、文芸部在籍の彼。中学のときは明るくてムードメーカーだったという夏葉の言葉が、やっぱり信じられない。

どうにか動揺を胸でおさえ、私は小瀬川くんから視線を逸らすと、書架に近寄った。

適当に選んだ一冊を手に取る。

ツルゲーネフの『初恋』、ロシア文学みたい。

しっかり読むわけではなく、心に響く言葉を探るように、まばらに読んでいく。

いつもと同じ、静かな空間に、ゆったりと時が流れていく。

窓から入り込む湿気まじりの風、夏の初めの匂い。

各々が本のページを捲る、パラリという音。

なんとなく読み進めてはいるものの、文体が難しいせいか、私はなかなか本の世界に入れないでいた。

そもそも、読書はそこまで好きな方ではない。

恋すらしたことがないのに『初恋』なんてタイトルの小説を選んだのも間違いだったのだろう。

どうにも集中できなくて、本をパタリと閉じると、もとの棚に戻した。

続いて選んだのは、ゴールズワージーの『林檎の木』。だけどこの本にもまったく集中できなくて、すぐにもとに戻した。

そのとき、書架の一番下に、薄い冊子がズラリと並んでいるのを見つける。

この間見た、毎年文化祭に合わせて製作してるという、文芸部の冊子だ。

無意識のうちに、手が紫色の去年の冊子に伸びていた。

パラパラと捲り、一番最後のページに辿り着く。

それだけ制作者の名前もタイトルもない、不思議な詩。

ツルゲーネフの『初恋』やゴールズワージーの『林檎の木』みたいに有名じゃない。

だけど名もない生徒が書いたその一編の詩は、今まで読んだ何よりも、私の心を捉えて離さなかった。
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