きみがため
桜人の博識ぶりに感心した。

「どういう意味なの?」

「“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”って意味」

淀みなく、桜人は答えた。

その和歌に秘められた壮大な想いに、思わず唸る。

「深い恋の歌なんだね……。死んでもいいという思いを超えて、生きたいと思うようになったほど、好きになったってことでしょ?」

死生観を覆すほどの大恋愛とはどういうものだろう?

まだ恋を知らない私には想像もつかない。

「うん、そうだと思う」

「……なんか、すごい」

「うん」

淡白な返事だけど、桜人の声は、いつになく弾んでいる気がした。

本当に、この和歌が好きなんだろう。

意外な一面が知れた気がして、うれしくなる。

「それに、言葉の響きがとてもきれい」

『日本語って、芸術だなって思う』と言った桜人の気持ちが、少し分かった気がした。

ふと顔を上げれば、思ったより近くに桜人の顔があった。

大人っぽいイメージの彼だけど、近くで見ると、思ったよりも幼く感じる。

茶色い瞳が、どことなく不安な色を浮かべていたからかもしれない。

きっと、私と同じように、自分について他人に話すことに慣れていないのだろう。

彼を励ますように、そっと微笑みかければ、桜人はまたすぐに下を向いてしまった。

それきり、私たちはほとんど会話を交わさなかった。

互いの気配を感じつつも、それぞれ本に没頭していただけ。

桜人がバイトに行かなければならない時間になり、一緒に部室を出て、廊下を歩み、学校を出てからも、無言のことの方が多かった。

だけど前を行く桜人が、私のペースに合わせて歩く速度を落としているのが分かって、見えにくい優しさに少し心が温かくなった。
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